留学先で出会った医師に導かれて
私は1968年福岡県に生まれ、幼少期から高校まで、父の仕事の関係で日本とアメリカを行き来しながら育ちました。大学は日本でと決めていたので、母親のすすめで聖路加看護大学(当時)に入学。看護師の資格を持っていたら生活するには困らない、という程度の考えでした。
卒業後、聖路加国際病院で配属された先が公衆衛生看護部(当時)。高齢者から新生児、糖尿病や腎臓病の患者さんを日替わりで訪問したり、生活指導をする仕事でしたが、新人には大変で。上司からは、「坂本さんは患者さんに寄り添うというより、外から観察している」と指摘され、客観的に物事を見る性格が看護師という仕事に合わないのではないかと思い、1年で退職。
その後、ニューヨーク州にいる両親のもとに帰り、1年半ほどモラトリアムな時期を過ごします。この先、勉強するのか、仕事をするのか。何かおもしろいことを学びたい……。結局勉強を選んだ私は、書店で大学院のガイド本を買って、片っ端から読んで入学先を探し、ニューヨークのコロンビア大学に「公衆衛生大学院」があることを発見したのです。なんとなく公衆衛生看護部にいたことと縁があるような気がして、途上国の健康問題を分析するプログラムもある同大学院を目指すことに決めました。
入学先で出会ったのは、感染症治療を専門とする一人の日本人医師。彼は帰国したら聖路加に勤務する予定とのことで話が弾みました。そして、「統計学、疫学を学んだ人でないと病気の発生頻度は測れない。僕は一足先に行って診断と治療を担当するので、感染管理の仕事を担当してもらえないか」と入学したばかりの私を誘ったのです。
彼はアメリカの病院で研修するうちに、感染症を診断・治療する医師の仕事と同じように重要な予防の仕事があること、診断・治療と予防は両輪だ、と気づいていました。当時の日本の感染症対策は、もぐら叩き的に感染症が出てきたら叩くという感じで、彼のように予防まで考えている人は少なかったと思います。
義理堅い方で、私の卒業が近くなった頃連絡をくれたので、卒業後の97年に帰国し、聖路加を訪ねました。出戻りの私を、「人生は何度でも再チャレンジできるのがいいよね」と人事部長も受け入れてくれ、その後、看護師、看護協会の感染管理認定の教員を経て、感染予防をする今の仕事に就いたのです。