肉親を捨て、小説の世界へ
桐野 重子さんの場合は、少し残酷に思います。松子さんの場合は、自分がモデルとなった小説の人物へ、あえて寄っていったようなところがありますから。
中島 やはり、書かれたものがかっこよかったから。
桐野 『春琴抄』も、それまでの文学に登場しないような魅力的な女主人公ですしね。谷崎ほどの作家のモデルになることが、生きがいにもなったんじゃないでしょうか。
中島 そして谷崎は、自分が書いたことで女性が変わっていくのを見るのも……。
桐野 さぞ楽しかったでしょう。
中島 取り込んで書き、書かれた人も作品によって変容していく──。
桐野 そうやってマッチポンプのように書いている蜜月期は、松子さんも幸せだった。でも谷崎は作品から“卒業”していくタイプだから、いつかは捨てられる日が来てしまう。
中島 『デンジャラス』のなかでも、松子さんが突然谷崎からバアサンと言われてギョッとするシーンがありますよね。『瘋癲老人日記』では、妻をくり返しバアサンと書いていますし。『瘋癲老人日記』は最晩年の作品ですが、それまでの作品と違い、生々しすぎるように感じます。
桐野 モデルと言われた千萬子さんは、谷崎と関係があったんじゃないかと勘繰られていますが、千萬子さんの立場が悪くなるのも、おかまいなしな感じがしますよね。モデルにされた人間のことを斟酌していない。谷崎自身が現実と小説のあわいに突き進み、主人公の卯木老人に近くなっています。現実生活で男として女性に介入できないなら、虚構の世界で男になっていく、というか。
中島 加齢のせいもあるかもしれませんね。
桐野 自分はどんどん老いて、女中さんを入れ替えることと千萬子さんに何か買ってあげるくらいしか楽しみがない。だからなおさら、小説で成功するのが大きな喜びだったのかもしれません。老人の性を書いて世間を驚かせるとか、自分の快楽や成功のためだったら、人を傷つけても何とも思わない。恐ろしい文学の怪物になりつつある、という感じがします。“小説のお化け”というか。作家のなれの果てはこうなのか──。
中島 ひえ~! 千萬子さんへの手紙を、わざとほかの人に読ませるように仕向けていたというのは、実際に……?
桐野 はっきりとはわかりませんが、谷崎にはそういう悪魔的なところがありますよね。周りの人は、谷崎の文学の奴隷と言っても過言ではない。そもそも谷崎の場合、血のつながった人とは暮らしていないわけです。
中島 じつの娘の鮎子さんは、佐藤春夫に渡してしまっていますもんね。
桐野 疑似家族というか、“小説的家族”を作っている。肉親を捨て去り、小説の世界に行ってしまった。
中島 松子さんにも、子どもを産まないでほしいと言って。
桐野 私自身、自分が書いた世界とは密接な関係が生まれるので、小説の世界が頭にある時に、娘から「お母さーん」と呼ばれたりすると、「あっ私、お母さんだっけ」となってしまう。現実に戻れないんです。小説を書き始めた頃は、その距離感みたいなものがつかめず、いっそ実生活を捨てて、小説世界に行ってしまおうかと思ったこともあります。それくらい魅入られていた。今はバランスがとれるようになってきましたけど。
中島 私も、現実よりもフィクションのなかの人物のほうが、自分と濃い関係を結んでいます。
桐野 愛おしいんですよね。