谷崎潤一郎。昭和30年頃、潺湲亭の客間にて

自分の身の回りを描くとしたら──

中島 私は、モデルを使った小説をほとんど書いていません。唯一『長いお別れ』は、認知症になった父のエピソードを、「ごめんね」と思いながら取り入れました。とはいえあくまでもフィクションなのですが、読んだ方からはどうしても「父を書いた」と思われてしまう。

桐野 理解されませんよね。私も『抱く女』で、自分が見聞きしたものをもとに書いていますが、主人公は私ではないわけです。でも、「お兄さん、内ゲバで死んだんですか?」と聞かれたりして。違う、と叫んでしまう!(笑)

中島 あはは。友人を見て面白いと思うことはありますが、エピソードを拾う場合は、性別や年齢、職業などを変え、潰してこねて、違う人物にします。でも、まったくそんなつもりがないのに、「これは私ですよね」と言われることもあって……。

桐野 私も、「あの本の何ページ目の会話は、私と息子の会話を盗み聞きして書きましたね」と、内容証明つきの手紙が来たことがあります。

中島 わあ……。

桐野 でもほかの作家の方にも届いていたことがわかりました。「俺と同じだ!」って。(笑)

中島 そもそも今の時代、作家の身の回りの出来事を書いたところで、読者は喜ばないでしょうね。作家の社会的地位が谷崎の頃とは違う。

桐野 昔は社会における小説の役回りがすごく大きかったのだと思います。文化をまとめ、率いていく役割を担っていた。だからこそ谷崎は、『鍵』で物議を醸して国会に呼ばれそうになったりしていますし。今は文学のほかにも、いろいろクリエイティブなものがありますから。

中島 私は、過去の作家の作品からインスピレーションを受けて書くことも多いんです。書かれたものには、濃いエッセンスが埋め尽くされているから、今を生きている者の視点から見て、とても刺激的。

桐野 私はけっこう、作家を主人公として書くことがあります。先ほどもお話ししましたが、作家が書くことで周りに影響をおよぼしていくのが興味深くて。でも、自分が家族を書くかと言ったら書かないし、私小説も苦手です。

中島 自分を書くとなると、大変なことになりますよね。自分の羽も周りの人の羽も抜いて……。

桐野 そしてやめられなくなるでしょうね──。小説には、何かを犠牲にしても書きたいと思わせる魔力があるから。