「一人じゃない、待ってくれている人がいるということが、どれほど生きるパワーになったか、言葉では言い尽くせません。」

もしかしたら、来年、この世にいないかも

退院から9ヵ月以上たった今〔編集部注:2020年8月に取材〕でこそ、こうして淡々とお話ししていますが、つらい治療が続く入院中は何度も心が折れそうになりました。

白血球の数値が低く、あらゆる病気に感染しやすい状態だったため、抗がん剤治療の合間に一時帰宅が許された数日間と、退院前の約1ヵ月間を除いて、ずっとクリーンルーム(無菌室)で過ごさなくてはいけなくて。病室の窓から素敵な景色が見えるわけでもなく、検査に行くとき以外はそのエリアから一歩も出ることができません。

耐えがたい閉塞感。病室で一人鬱々と過ごしていると、気分もどんどん落ち込んでいく。「もしかしたら、来年、この世にいないのかな」と悲しくなったり、世界から自分一人だけが取り残されたような気がしたりして、入院当初は、音楽を聴く気にもなれませんでした。

そんな私を支えてくれたのが、母と娘の存在です。17年前に離婚してシングルマザーになったとき、幼い娘を残して仕事やツアーに行かねばならなかったので、愛知の実家に住んでいた母に上京してもらい、そのままずっと母と同居しっぱなし(笑)。その母が、今回も私を助けてくれました。

78歳になる母が、毎日、洗濯ものを抱えて病院に通ってくるのは、さぞ大変だったと思います。日に日に疲労の色が濃くなっていく姿を見て、「母のほうが病気になってしまったらどうしよう」と申し訳なくて。

でも、季節の移り変わりさえもわからない隔離された病室で、一人ぼっちで治療を受けている私にとって、家族が顔を見せてくれることが何よりの気分転換になったので、ついつい甘えてしまいました。

22歳になった大学生の娘にも大いに助けられましたね。骨髄刺の結果を聞くとき、母と娘にも同席してもらったんですが、娘は事前に図書館に行き、白血病についてさまざまな文献を調べていました。「万一、白血病と言われたら、先生方に質問するときにきちんとした知識がないと困るから」と。私は、怖いものは見たくないという臆病な性格で、あえて現実を見ないようにしていたのですけどね。

「急性白血病です」と先生から告げられたときも、頭が真っ白で何も考えられなくなってしまった私の代わりに、「母を死なせてもらっちゃ困る! どんな治療をすればいいんですか?」って、ものすごい勢いで先生たちに質問してくれた。ああ、こんなに頼りになる年齢になったのかと、感慨深いものがありました。

告知の後、家に帰って来たときも、「疲れてストレスがたまっていたんだね。気づいてあげられなくてごめんね」と娘がボロボロ泣いて。でも、「かなりきつい治療だけど、私のために頑張ってほしい」と、強く言われました。

多分、私の性格だと「そんなにきつい治療なら、やめようかな」と尻込みしたり、途中で「もう、いいや」と諦めてしまうかもと娘は察していたんでしょうね。だからこそ、強く私に言ったのだと、治療を受けてみて合点がいきました。

実際に、抗がん剤治療を受けている最中に、「もう、いいや」って諦めモードになったときもあったんです。娘にも伝わっていたのでしょうか。「復帰後のコンサートで歌う曲を、これを聴いて決めたら?」と、私のニューアルバムをわざわざ買って持って来てくれて。

そのときに、そうだ、このアルバムの曲をまだファンのみなさんの前で歌っていないのに死ぬのはイヤだ、もう1度ステージに立って、みなさんの前で新曲を歌いたいという気持ちが湧いてきた。そもそも、いくらしっかりしているとはいえ、まだ大学生の娘を一人で遺していくわけにはいかない! その思いに支えられ、どんなにつらい治療でも頑張らなければいけないという気持ちになったのです。

ファンのみなさんや音楽仲間からの応援メッセージも心の支えになりました。一人じゃない、待ってくれている人がいるということが、どれほど生きるパワーになったか、言葉では言い尽くせません。