満州・旅順の水師営会見所にて。後列左が古関夫妻(写真提供:古関正裕さん)

汽車が揺れるリズムに乗って作曲

すでに第一席に選ばれていた「進軍の歌」の歌詞には陸軍戸山学校軍楽隊が作曲したことが報じられた。第二席の藪内喜一郎の歌詞について、選者の一人である北原白秋は、良い曲がつけば日露戦争で生まれた軍歌「戦友」のような存在になるだろうと述べていた。

下関から特急「富士号」に乗車したが、東京に着くまで十数時間を要した。退屈を感じた古関は、懸賞募集第二席の歌詞を思い出し、『東京日日新聞』を広げた。「勝って来るぞと勇ましく」は山陽線の各駅で見られた出征兵士を送る光景であり、「土も草木も火と燃える」や「鳴いてくれるな草の虫」は旅順で見た風景であった。

汽車が揺れるリズムに乗って簡単に作曲でき、東京に着くまで金子と二人で歌っている。東京に着くと古関はコロムビアに向かった。担当のディレクターに「急ぎの曲って何ですか」と聞くと、『東京日日新聞』の第二席の歌詞に曲をつけて「露営の歌」として作りたいという。

古関は一瞬驚いたが、「あッ、それならもう車中で作曲しました」と、五線譜を取り出して見せ、ディレクターも「どうして分かりましたか」とびっくりした。「そこはそれ、作曲家の第六感ですよ」と答えると、「ちょうど短調の曲が欲しかったところなんです」と大喜びであったという。偶然の産物であったが、この曲が古関のその後の人生を大きく変えた。