親孝行ができた

事実、『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』の9月から10月の広告では「進軍の歌」のタイトルが大きく書かれ、「露営の歌」は目立たなかった。だが、『東京日日新聞』の昭和12年11月15日の夕刊では、「露営の歌」のタイトルを大々的に取り上げ、「第一線の歌!銃後の歌!」として全5番までの歌詞を掲げ、その下には「戦線のひと刻『露営の歌』を歌ふ勇士たち」という見出しで、「露営の歌」を合唱する軍服姿の兵士たちの写真を掲載し、「進軍の歌」はタイトルしか紹介していない。10月16日の朝刊からひと月の間に「露営の歌」を買い求める客が急増したのである。その後はタイトルも消えて「露営の歌」だけを宣伝するようになった。両曲の形勢は逆転してしまった。

『エール』の風俗考証を務める、刑部芳則日本大学准教授

内務省の調査では、昭和13年1月までに56万枚を売り上げており、戦前の流行歌の売り上げ枚数では第一位の記録となった。古関によれば、先の新聞記事が載ってしばらくすると、新橋駅や新宿駅でも出征兵士を送るときに「露営の歌」の大合唱が聞こえてきたという。また各レコード店からも「露営の歌」の曲が流れるようになった。さらに母親からは次のような手紙が送られてきた。

「婦人会で出征兵士の見送りに行くと、皆が小旗を振って、お前の作った歌ばかり歌います。近所の人々も『息子さんの作った歌ですってねえ』と声をかけてくれたりして、何となく晴れがましい気持ちです。5年前、お前が東京に出た時、親類中が、『歌なんか作ってー。せいぜい演歌師が関の山だ』とか悪口を言っていたけれど、この頃は手のひらを返したようにチヤホヤします」

古関は、この手紙を読んで親孝行ができたと感じた。昭和13年6月5日、父三郎次が死去している。享年66歳であった。「露営の歌」の大ヒットを喜んでもらえたのが、せめてもの救いといえる。

「露営の歌」の大ヒットで、古関は一躍時の人となった。古関の戦時歌謡は、大衆に支持され、軍部や政府関係も認めていた。そうした期待と依頼に応えて、古関は戦時歌謡を次々と作曲していく。
古関が作る戦時歌謡は勇ましいが、どこか悲壮感が漂っている。
悲しい楽曲の特徴について古関は、「『露営の歌』を作曲する前、満州に旅行をしたことがあるんです。あのとき、戦争のむごたらしさ、悲惨さを、いやというほど思い知らされました。私が作った軍歌には、そのときの印象が根強く尾を引いているはずです。つまり、私は雄々しいだけの軍歌は作れずに、どうしてもメロディーが哀調をおびてきちゃうんですよ」と分析する。

古関の優しい人柄がにじみ出ている。戦争が始まった以上、勝たなければならない。しかし、戦場では多くの犠牲者が生まれる。そう考えたとき、戦意が高揚するような士気が上がる応援歌にも、悲しい現実を織り込まないわけにはいかなかったのである。