舞台挨拶に立つ若き日のグレコ。彼女が着る服のほとんどはシャネルで、ココ・シャネル本人が仮縫いをした( 写真提供:アンフィニ)

 

歌手になった思わぬきっかけ

まさか、これほど長く歌い続けるとは思ってもいませんでした。歌手になりたい一念で、この世界に足を踏み入れる方が多いようですが、私は違う形で歌い始めましたから。

かつて私は、仲間と一緒に「タブー」という地下クラブを開いていました。そこへエネルギッシュな若者が集い、そんな若者たちを見ようと、有名な詩人や作家、建築家が来訪。さらにそれら著名人を目当てに、世界中からさまざまな人が訪れていたのです。

誰もが、たちこめるタバコの煙と興奮のなかで呼吸し、ダンスとおしゃべりに興じていました。ただし、20歳の私は、踊らずに黙って人を観察しているような娘でしたけどね。俳優のジェラール・フィリップ、アルベール・カミュ。ノーベル賞作家のフランソワ・モーリアックや、ピカソだって店に来たのです。ジャン・コクトーも、翼が生えたような彼独特の言葉で皆を楽しませていましたね。

中でも私が特に目が離せなかったのが、ジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールのカップルです。サルトルは、すでに哲学者として名を轟かせていました。

また、ボーヴォワールに心から憧れていた私は、彼女の著書をすべて読んでいました。『第二の性』『招かれた女』『他人の血』……。彼女はとても美しく、見る者の心をかき乱すほどでした。カフェでの執筆中は、何時間も顔を上げずに書いているので、その強い視線によって、原稿用紙が燃え上がるのではないかと思ったものです。

サルトルは、私と親友のアンヌ=マリー・カザリスをかわいがり、よく食事に連れて行ってくれました。アンヌは面白いことを突然思いつく人で、ある日、彼女がサルトルに「グレコに歌わせたら、けっこうイケるかも」と言い出したのです。彼は「彼女がそれを望むのなら」と答えましたが、私は歌いたくありません。うまく歌えないし、自分の声が嫌い。ラジオでかかるような流行歌も嫌いなのだと言ったのです。

しかしサルトルは、翌朝家に来るように告げました。行ってみると、なんと彼は私に詩を用意していたのです。しかも、「枯葉」を書いたジョゼフ・コスマに作曲を依頼したとも。

私はコスマの家で、コスマ夫人とアンヌに励まされながら歌いました。それこそ3人が先に歌い、私が後から恐る恐る声を合わせるようにして。これが私の最初の“歌”です。歌うことは私を幸せにしてくれました。

こうして歌を始めたので、私は、自分が愛する詩しか歌わないようになりました。「歌う曲が偏っている」「もっとヒット曲を狙ったらいい」という意見もありましたが、愛する人としかキスしないのと同じで、心から唇にのせたいと願う詩しか歌いたくありません。

1949年のある日、アメリカの雑誌『ライフ』が文化人の集う地区、サンジェルマン・デ・プレを特集し、たまたま私が4ページも掲載されることになりました。それから私が“サンジェルマン・デ・プレのミューズ(女神)”と呼ばれるようになったのです。なんて大げさな表現なのでしょう!

その年、私は初めて愛したカーレーサーの恋人に先立たれ、悲しみに包まれていました。一方で、ジャン・コクトー監督の『オルフェ』で映画デビュー。さらに公演が再開された舞台で歌うなど、転機の年でもありました。