過酷な体験と愛する人たち
幼くして両親が離婚したので、私は7歳まで姉と一緒にボルドー地方で祖父母に育てられています。大きな愛情で包んでくれた祖父は、私の大事な恋人でした。母はパリにいて、物理的にも心情的にも距離がありました。
祖父が亡くなり、パリに移ることになったものの、学校が肌に合わず3ヵ月で退学。オペラ座のバレエ学校に入って練習に励みましたが、戦争が始まってバレエを断念せざるをえませんでした。
一方、よくできた姉は母の自慢の種です。残念ながら、私は母に愛されずに育ちました。そのことは、今でもナイフのように胸に突き刺さっています。ひどく痛みますが、抜くことはできません。
第二次世界大戦が始まり、40年にドイツ軍によってパリが陥落すると、母はナチスによる占領に反対するレジスタンス運動に身を投じました。43年、民衆への取り締まりを強化したドイツ軍によって母が連行され、それを追いかけた私たち姉妹もナチスの秘密警察に捕らえられたのです。刑務所に2ヵ月間収監されましたが、16歳だった私は、未成年ということで釈放。しかし、姉は母とともにドイツ国内のナチ強制収容所に送られることになってしまいました。44年にパリが解放され、2人とも帰還することができましたが、今でも当時のことを忘れられません。
戦争は、人を狂わせるおぞましいものです。戦争の悲劇をこの目で見た私は、二度と繰り返してはいけないと、平和と自由を願うようになりました。
50年にパリの店「ローズ・ルージュ」で歌手として本格的にデビューし、翌年、初めてのレコーディングに臨みます。ちょうどその頃、マイルス・デイヴィスなど、アメリカのジャズ・ミュージシャンたちがフェスティバル出演のためにパリに来ていました。
そこで私はマイルスと恋に落ちます。けれど、彼の第一印象は最低でした。指を曲げて、こっちへ来いとジェスチャーするのです。「その見下した態度は何!」。私は喧嘩腰で食ってかかりました。けれどマイルスは、そんな勝気なところに魅了されたそうです。それまで彼が会った女性は、彼の言いなりで、「初めて、自分の意見を言う女に会った」とか。
マイルスのトランペットは、哀しみをたたえて、美しく響きます。本当に魅せられました。私はもともと恋の対象を、肌の色や性別で決めたりすることはありません。だから、彼と一緒に時を過ごすことにも何の違和感もありませんでした。
彼は滞在中、パリの自由な空気を満喫していたようです。サルトルやピカソと交流し、「白人と同じレストランに表から入るのは初めてだ」とも話していました。もともとパリには、人種差別をするような店はありませんし、モダン・ジャズは自由の象徴のように考えられていましたしね。
楽しい時はあっという間に過ぎ、マイルスはニューヨークへ。そこには3人の子供と、結婚はしていないけれど、パートナーがいることも聞いていました。その後、人づてに彼が私に会いたくて苦しんでいる、麻薬にまで手を出している、とも。
数年後に、ニューヨークでの映画撮影の話が入ったので、私は飛びついて現地へ向かいました。もちろんマイルスに会うためです。アメリカでは、黒人男性と白人女性が向かい合っているのは歓迎されないだろうと、ホテルの部屋でディナーを楽しもうと考えました。
けれど、やってきたマイルスと仲間たちを見るや、さっきまで満面の笑みだったウェイターの態度が豹変したのです。睨みつけ、皿を投げつけるように置き、さらには料理を持ってきません。私のプランは散々でした。当時のアメリカでは、そういった差別は普通のこと。肩を落として帰るマイルスを引きとめることもできず、私は一晩中泣き明かしたものです。
その後、私は結婚を3度しました。しないで済むものならしたくはないのだけれど、男性たちが結婚を望むのです。
最初の結婚は、俳優のフィリップ・ルメール。陽気なハンサムで、新婚旅行はレバノンへ行きました。私たちは、色彩に溢れる市場を散歩し、ジャスミンの香りに包まれました。彼は、私にローランス・マリーという娘を与えてくれました。彼女は美しく聡明な女性に育ちましたね。2度目の新婚旅行は、やはり俳優のミシェル・ピコリと真冬のロシアへ。3度目の結婚は、私のピアニストでもあるジュアネストと。彼とは、今も継続中です。