子どもたちの失踪が与えた衝撃

13世紀末ドイツの小さな町ハーメルンで、130人の子どもが忽然と消えた……。

当時の町の規模から考えて130人がどれほどの大人数だったか、後世の我々にも何となく想像はつくが、近代のハーメルンに当てはめるなら2000から2500人相当だろうとの研究結果もある。驚くべき空洞の発生だ。しかも原因は戦争でもパンデミック(疫病の世界的大流行)でもない。対象が老若入りまじっていたわけでもないし、長期的な漸減でもない。少年少女たち―町の活力源、未来の働き手―だけが、たった半日のうちに一挙に町からいなくなったのだ。衝撃の波が他国にまで拡がったのも頷けよう。

そして当然のことながら、口伝えの過程で話は膨らんでゆく。グリム兄弟の『ドイツ伝説集』は、主に16〜17世紀の資料をもとに編纂されたものだが、子どもが消えた1284年からそれまでの間で、庶民に直接影響を与えた歴史的大事件といえば、14世紀のペスト禍 (ヨーロッパ人口の3分の1ないし2分の1が死んだとされる最大規模のパンデミック)と魔女狩りである。この2つが「ハーメルンの笛吹き男」伝承にも影響を与えたのは間違いない。

なぜなら古い文献のどこにも、グリム伝承の前段に当たるネズミ退治のテーマは見られないからだ。

『中野京子の西洋奇譚』(中野京子:著/中央公論新社)

文献が語る「ハーメルンの笛吹き男」

まず同時代人による市の公文書だが、あまり詳しくはない。「今後は子どもたちがいなくなった1284年を起点にして(まるでイエス誕生を西暦1年と定めたように)市の年代記を記す」という程度である。つまり、今年は我らの子どもらが連れ去られて何年目、というように数えようと言うのだ。

実際、16世紀後半になってもなお、新設された市門にはこう彫られていた―この門は魔法使いが130人の子どもを連れ去ってから272年後に建てられた、と。

また事件から20〜30年後に描かれた例のマルクト教会のステンドグラスには、絵の他に碑文も書かれていたという。現存していないが、絵と同様その文章も書き写されており、概略はこうだ―ヨハネとパウロの日(6月26日)にハーメルン生まれの130人が、引率者に連れられて東へ進み、コッペン(古ドイツ語で「丘」「小山」の意)で消えた。

もっと具体的に記された最古の記録は、15世紀半ばの『リューネブルク手稿』である。筆者はおそらく修道士。この事件を古文書で知ったという。曰く、1284年のヨハネとパウロの日に、ハーメルンで不思議なことが起こった。30歳くらいの男が、橋を渡ってヴェーザー門から入ってきた。身なりが立派だったので、皆、感心した。彼は奇妙な形の銀の笛を持参しており、それを吹くと、聞いた子どもたちが集まってきた。そしてその130人の子たちは男の後をついて東門を抜け、処刑場の方へ向かい、そのままいなくなった。母親たちは捜しまわったが、どこへ消えたか誰もわからなかった。

これが話の骨格だったのだ。

ネズミも市側の裏切りもない。単に見知らぬ男が来て笛を吹き、子どもらと共にいずこともなく消え去ったというだけ。しかし1284年という年号と130人という数は中世のどの文献にも共通し、この具体的数字の生々しさによって、事件が現実に起こったことがうかがえる。