戦時歌謡の終わり

古関の邸宅は、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲と、5月27日の空襲でも焼失することはなかった。しかし、危険を回避するため、長女雅子と次女紀子を福島市に疎開させることにした。古関は、JOAK(NHKの前身である東京放送局の「国民合唱」で4月1日から14日まで放送された「特別攻撃隊「斬込隊」」、5月20日から6月9日まで放送された「ほまれの海軍志願兵」などを作曲している。

刑部芳則さん

7月には福島市も空襲の恐れが出てきた。古関は飯坂温泉の知人宅に二人の娘を移すことにし、妻金子が福島に向かった。同月中旬にはJOAKから、金子が腸チフスに罹って重篤だとの知らせを受けた。当時は電車に乗るにも許可を要したが、古関はJOAKと海軍省から特別通行証を得ていたため、すぐに福島に行くことができた。

金子の顔には「死相が現れていた」が、古関の輸血に加えて、福島には薬、玉子、牛乳、果物、野菜などがあったため、一命をとりとめた。8月10日に退院すると、古関はJOAKの仕事で東京へと戻った。

古関の随筆「終戦のころ」によれば、福島から上野まで12時間もかかり、上野に着いたのは8月15日の午前11時だったという。そこで列車を乗り換えて新橋駅を降りると、駅長室付近に人だかりができていた。古関が「何ですか」と尋ねると、「正午に天皇陛下の玉音放送があるそうです。敗戦ですかねえ、それとも本土決戦かも……」という。

しばらくすると、終戦を告げる玉音放送が流れたが、古関は周囲の雑音などでよく聞き取れなかった。だが、降伏したことは、目頭を押さえる人や嗚咽でわかった。これで戦時中の人たちの応援歌ともいうべき、戦時歌謡を作曲することも終わる。