二列にきちんと並んで、みんな大声を出して

古関は、「苦しい時つらい時、皆で合唱すれば、それらは消え去るでしょう。労働する時に掛け声と共に歌を歌えば疲れも忘れ作業にはげむことも出来ます」と語っている。苦しい戦争体験をした若者は、どんな気持ちで古関の歌を聞き、歌っていたのだろうか。その貴重な証言のいくつかを取り上げる。

昭和20年4月に長野県立伊那高等女学校に入学した女子生徒は、動員作業を行う日々のなかで「〈予科練の歌〉〈ラバウル航空隊〉〈日の丸行進曲〉等に若い血をおどらせ歌ったものだ」と語る。「日の丸行進曲」を除く2曲とも古関の曲である。

この前年の昭和19年6月12日、兵庫県立神戸第三高等女学校の三年生たちは、東洋ベアリングという会社で動員作業を終えると、「二列にきちんと並んで、みんな大声を出して、〈予科練の歌〉など歌って帰ったものです」という。

昭和20年2月の写真(後列右から5人目が古関裕而/写真提供:古関正裕さん)

昭和20年3月に岡山県矢掛中学校を卒業した男子生徒は、「水島工場への道を、隊伍を組み、白い鉢巻をきりりと締め、もんぺをはいた女学生の一団が、〈若い血潮の予科練のーー七つボタンは桜に錨ーー〉と合唱しながら行進して行きます。その歌声は、私達少年に予科練への志願を催促する響とも聞こえました」と、当時を振り返る。

ここで意外なのは、「若鷲の歌」が男子生徒だけでなく、女子生徒たちが好んで唱歌していることだ。歌謡曲の評論家が書く歌謡史本では、「若鷲の歌」は男性、「愛国の花」は女性と、それぞれの対象を単純に捉えているが、実際には、男女の別なく、当時作られた戦時歌謡を楽しんでいた様子がうかがえる。

学校や工場が歌うことを強要したのではなく、自分たちが好んで歌っていることを見逃してはならない。古関が作った戦時歌謡は、当時の人たちにとって「安寧と娯楽」であり、また苦しい戦時下で明日を生きる希望ともなる存在であった。

古関夫妻の長男・古関正裕さんの著書『君はるか 古関裕而と金子の恋』集英社インターナショナル