園長が買い求めたというニューヨーク・スタインウェイのピアノで、取材後、バダジェフスカの「乙女の祈り」を弾いてくださった

東京から足利に嫁いで

記憶も、直近のことがなんだかちょっとあやふや(笑)。最近のことにかぎってすぐ忘れちゃうの。そのかわり、昔のことはよく覚えているから不思議ですよね。

生まれたのは東京の三田です。生家では祖母が助産師・看護師の派遣所を営み、家の2階には住み込みの女性たちが常に50人近く暮らしていました。私は6歳のとき父を亡くしたので、母は祖母のところでずっと働いていて。だから私にとって、女性が仕事を持つことはごく当たり前のことだったの。

経済的には恵まれていたと思いますし、教育にも熱心な家でした。小さいときからピアノを習わせてくれたり音楽会に連れて行ってくれたり。3歳の頃、日比谷公会堂の客席で音楽に合わせて踊りだした私を見て、母が舞踏家の草分けである石井漠先生の研究室に通わせてくれたのも貴重な経験でした。研究室ではいちばん小さかったので先生にかわいがっていただき、舞台に出たこともあるんですよ。

東京女子大学では数学科に進み、卒業したら母校の女学校で数学の教師になることが決まっていました。その頃に終戦を迎え、大学で宮本百合子さんの講演を聞いたことがあります。

戦時中は、共産主義の大悪人と言われていた人。そんな人がいらっしゃるだけでも驚きなのに、講演中、天皇陛下のことを「あの方は、天皇にさえならなければ世界的な生物学者になれたのに、戦争に利用されて気の毒だ」といったことを話されて。

はぁ、世の中はずいぶん自分の思っているのとは違うのだな、と感じましたね。人の言うことや教えを鵜呑みにせず、自分で調べ、自分の頭で考えることが必要だと身に沁みたものです。

間もなく嫁ぐことを決めたのは、夫の父から「嫁にこないか」と声をかけられたからです。教師になりたかったけど、そのときは望まれて結婚するほうがいいかなと思っちゃった。東京は深刻な食糧難でしたし、大川の親戚の間では「本家の嫁さんは、お米食べたくて嫁にきた」と言われていたみたい。まあ半分は、そうだったかもしれないですね。(笑)

住み込みの女性たちに家事をしてもらっていたので、私はお米も研げない嫁でした。ここは釣瓶井戸でしょう。ぷーぷー吹いて煮炊きをするんです。ガスや水道の暮らししか知らないから、びっくりしちゃって。そのうえ、家族以外に群馬大学の学生さんが5、6人下宿していたので、その人たちの食事も作らなきゃいけない。食糧はまだ十分ではなく、長男をおぶって、習いたてのうどんを一所懸命打ったのを覚えています。