ペリー来航の2年前に建てられた「大川家住宅」の母屋。帰宅する園児たちに気づくと、繁子先生は手を振っていた

 

次男坊をおぶって受けた資格試験

姑のナミさんは、「私が黒と言ったら、それが白いものでもハイと言いなさい」というような強い人でした。きれいで、頭もよくて。ですから息子に嫁がくる年になっても、崇拝者のような男性が周囲に大勢いたんです。

終戦後の暮らしがつまらなかったんでしょう、あるときふいに「幼稚園を作りたいわ」と言い出したのね(笑)。すると取り巻きの男性たちが「いいですね、作りましょう!」と話がどんどん進んでいって。県へ相談に行くと、「これからは保育園が必要になるから、それを作っては」と言われたとかで、自宅を使って子どもたちを預かることになったのです。

当初は近所の女性たちを雇って面倒をみてもらっていたのですが、設立の翌年から「施設には1人、保母の有資格者が必要」ということになりました。それで「あなたが取りなさい」と私に白羽の矢が立ったんです(笑)。生まれたての次男をおぶいながら、当時の保母資格の試験に挑みました。

だから日本でも、最初のほうの資格者じゃないかしら。皆さんはピアノの実技に苦労したようですが、幸い私は子どもの頃に習っていましたし、子育ての経験も生きて何とか1回で合格できました。

実際に現場へ出たのは三男が中学生になってからです。30代半ばの遅いスタートでしたが、いざはじめてみると、これが楽しくて。子どもたちと接するのは毎日が発見の連続で、ワクワクすることばかり。この仕事じゃなかったら、きっとこれほど長く続けることはできなかったと思います。

予定表に書かれた「はなしあい」という文字に園の特徴が見てとれる