ただ、ショックという意味では、母が倒れたときのほうが衝撃は大きかった。その7年前に脳卒中で倒れたとき、母はまだ54歳。それまでは家のことも父の仕事のことも、すべて母がやっていて。父は外で働いて稼いできてくれる大黒柱だったけど、私たち子どもにとって、心の拠りどころは母でしたから。

こん平 そうだったね。

 うちは4人きょうだいで、姉と妹、弟がいるけれど、母のことは、私と妹が中心になって、トイレ介助や食事の準備、リハビリ通院などの面倒をみるという日々でした。母が倒れたのは、私がはじめての出産をし、その長男が1歳の誕生日を迎える1ヵ月前。つまり、育児と母の介護を同時にしなければいけなくて無我夢中だった。幸い、母は杖をつきながらですが、その後、日常生活を送れるまでになりました。その間、母方の祖母も介護したのちに91歳で見送って。そうしてわが家が少し落ち着きを取り戻したときに、父が突然、病に襲われたのです。

 

糖尿病の悪化で一時は心肺停止に

大学病院やリハビリテーション専門病院での入院生活を経て、こん平さんが退院したのは9ヵ月後。自宅で療養しながらリハビリに励む生活のなかで、順調な回復をみせていく。数十年前にこん平さんが発起人となって立ち上げ、今も続く「らくご卓球クラブ」に通い、ラケットを握るうち、ラリーが続く回数も増えていった。そして舞台に立って挨拶もできるようになった矢先、持病の糖尿病が悪化し緊急入院することに。

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 糖尿病によって足の指が壊死し、そこから入った菌が心臓にまわって心肺停止に至りました。電気ショックで息を吹き返したものの、左足の指3本を切除。一命はとりとめましたが、つらかったね。

こん平 ………。

 半年後に退院したときは寝たきりの状態。退院する際、自宅療養は無理と医師に言われ、転院を勧められるなか、本人の強い希望で自宅に戻ったんです。

こん平 どうしても家に帰りたくてね。帰れて嬉しかったよ。

 起き上がるのもままならない。食事もひとりではできない。父の生活のレベルを少しずつ前の状態に戻すには、家族の力だけでは無理。介護の専門家の方たちにも手伝ってもらうために要介護認定を受けると、要介護4でした。

 

10年ぶりの「チャラ〜ン!」

介護ヘルパーと家族とが連携しながら、こん平さんをケアする態勢を整えたこの頃、咲さんは離婚をし、当時高校3年生と小学5年生だった2人の息子との生活をスタートさせていた。シングルマザーとして、親子3人の暮らしを支えるためには仕事をしなければいけない。そして、父親には元気になってもらい、いつか落語家として高座に復帰させたいという強い願いもある。そうした思いを胸に、咲さんは一般社団法人「林家こん平事務所」とともに、イベント会社「EMIプランニング」を設立する。

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 会社をつくって初のイベントが、都電を貸し切りにし、走る都電に揺られながら落語を楽しむ「都電落語会」です。開催は「チンチン電車の日」である8月22日。退院から1年足らず。父はまだとても高座で話せる状態ではないけれど、落語の舞台に上がらせて、みなさんに元気な姿を見てもらいたい。そんな願いから企画したものです。周囲は反対しました。真夏の炎天下に要介護4の父を連れ出し、電車に何時間も乗せるわけですし。でも、ドクターの許可も出て、何より、その話をしたときの父の反応が……ね?

こん平 最初はね、自分でもびっくりして、そんなことできるのかなと。でもやってみたい。それで、「よろしくお願いしますよ」と。