この1年、イタリアの家に戻ることも家族と会うこともできない状態が続いてるヤマザキさん。ひとつの場所に止まらず創作に向き合ってきたこれまでの生き方とは180度違う生活。だが、そんな日々のなかで改めて気付いたこともあったという(文・写真=ヤマザキマリ)

移動することは生きること

イタリアと日本の往復を含め、ひとつの場所に止(とど)まらないことを創作の糧にしていた私にとって、今回のコロナ禍による足止めは正直しんどい。パンデミック発生当初は今までの旅によって貯蓄された燃料でなんとかやっていけそうな気もしていたが、イタリアの家へ戻ることも、家族と会うこともかなわなくなって間もなく1年、さすがにメンタルのコントロールが難しくなってきた。

自分の仕事の仕方を料理法にたとえれば、大火力のコンロの上で食材を調理する中華料理みたいなものだが、今はその火力がアルコールランプと差し替えられたような心地とでもいうのだろうか。なんとも心許ない。鍋の中の食材は生煮えのまま、思い通りの完成品とはなってくれない。

移動を生きる手段にしているなんていうと、いかにもかっこいい印象を与えそうだが、実際はひとつの場所でじっくり向き合うべき案件があっても、都合が悪くなれば意識を別の方向に向けてやり過ごすわけだから、まあ調子のいい生き方だともいえる。そんな自覚も今さらになって芽生えてきた。

動物を家畜にしたり、農作物を管理したりという手段は、定住生活を選んだ古人たちの知恵だ。ただ、遊牧民やロマのような移動型の人間にとって、そうした安定感や便宜性のある生活は、物足りなかったのかもしれない。

たとえば私の場合、石橋を叩きながら危険を回避してばかりいると生命力が脆弱化し、逆に不安が増長してしまう傾向がある。食料で胃袋を満たす充足感よりも、あらゆる経験で得られる栄養素のほうが、自分を強固にしてくれる。ちなみに私の母はそんな娘を「苦労性」と括っていた。その通りだと思う。