ノータイムで、「はい」と答えた
そろそろゲンロンの話をしよう。
ゲンロンが創業したのは2010年4月のことで、ぼくは早稲田大学の学生だった。タイミングを同じくして、東浩紀が早稲田大学の教授に着任した。東の読者であったぼくは、お、ラッキー、くらいの気持ちで、気軽に授業を受け始めた。
なかでもお気に入りだったのは「批評を書く」という科目で、生徒が書いた批評を教室前方のスクリーンに投影し、東がコメントしながら直接文章に手を入れていくというものだった。ひとつひとつの修正が腑に落ちるものばかりで、さっきまでぱっとしなかった学生のレポートがみるみるうちに魅力を増す工程は、ちょっとした手品を見ているような気分だった。しかし手を入れられる側からすれば、精神的な負荷も大きい。半年後、後期に入ると履修者数は激減していた。ぼくとしては少人数で指導が受けられるのはありがたい話で、自然と形成された少人数のグループで、よく東を交えて学食に行った。東は「学食といえばカツカレーだ」という謎のマイルールを掲げ、かならずカツカレーを平らげていた。真似してぼくもよくカツカレーを食べた。
さきほど触れた「批評を書く」で提出した桜庭一樹氏についての評論をおもしろく読んでもらえたようで、翌2011年、加筆修正したものをゲンロンの会報に載せてもらうことになった。続いて、『思想地図β』の2号に掲載する重要な座談会の構成を任された。ふつうに考えればライター経験のない学生に依頼するような内容ではないし、提示された作業料も(自分から見れば)破格だった。この仕事を振ってもらえたことにはいまでも深く感謝している。
当時は進路について深く考えていなかったが、東が指導教官なら大学院に進むのも悪くないと思うようになった。院試向けの英単語集を買ったところで、急な転機が訪れる。当時はゲンロン関係者の飲み会ツイートに反応して、よく途中で合流していた。その日いつもの飲み屋に行くと、東から今度ひとり編集者が辞めることになった、代わりの人材を探している、徳久くんはゲンロンで働く気があるか、と聞かれた。ぼくはノータイムで、「はい」と答えた。あらかじめ声をかけられると思っていたわけではないし、もっといろんな条件を考慮してから返事をするべき局面だったはずだ。しかし答えは一瞬で導かれた。