2013年、東浩紀と筆者。当時弊社にはなぜか全自動麻雀卓が置かれていた。これは東から字一色を出アガリした記念写真

長考すること自体が失策になる場面がある

合理性や損得勘定で考えると、この返事が正解だったのかはわからない。考慮すべき要素が多すぎる。重要な決断なのだから、少しくらい時間を取って考えてもいい。だいたいぼくはクイズならば、シンキングタイムを使わないのはもったいないと考えるタチだ。

しかしシンキングタイムは、使えばいいというものではない。たとえば麻雀を考えるとわかりやすい。麻雀には原則、持ち時間という概念がない(対局時間の上限が設定されていることはある)。過度の長考はマナー違反とされるが、ルール上はどれだけ考えてもかまわない。麻雀はプレイヤーが4人おり、使う牌の数も多く、卓上に現れるシチュエーションも無限に近い。本当であれば、じっくり時間をかけて考えたいことも多い。だが難しい手組みであっても、長考すること自体が失策になる場面がある。時間をかけて考えること自体が大きな情報となり、手牌の状況や待ちを読まれてしまうことにつながり、不利に働くことがあるのだ。時間をかけて精一杯呻吟するのが正しいとは限らない。

ゲンロンで働く気があるかと聞かれたとき。ゲンロンをたたみたいと言われたとき。もしぼくが、ちょっと待ってほしい、考えさせてほしいと言っていたら、たとえ同じ結論を導いたとしても、その答えを信じてもらえただろうか。だいたいぼく自身が、その答えに自信を持てただろうか。

そう。自分がそれを知っていると自覚していなかったようなことを、問いを向けられて急に答えられるとき。こういうときが一番強いのだ。