幸田文(左)さんとのツーショット

「文壇の紳士」と「ワンマンな主人」

世の男のほとんどは社会向けと家庭向けの二つの顔を使い分けていると言いますが、我が井上家では家庭が仕事場でした。家庭向けの居間と社会向けの応接間の間はわずか4、5歩の距離の廊下だけ。この間を足繁く往き来する父の顔は、それは、めまぐるしく変貌して、片手に「文壇の紳士」の穏やかな面、もう片手に不機嫌でワンマンな主人の面を持ち、それを廊下でパッパッと忙しく付け替えているのでは、と不思議な気持で父を眺めていたものです。

父はほとんど、この生の不機嫌な顔を外には見せませんでした。しかし、私が物心ついた頃から大学を出る頃までというのは、父の人生でも最も忙しい時期で、家族のことなど気を配っていられないほど全神経を仕事に傾けていた、必死な毎日だったのでしょう。

作家としての仕事についていない頃、父にあやされ、遊んでもらった記憶も多い長女、長男と、物心ついて以来、手を繋がれたこともなく、うるさそうに睨まれながら育った次男、次女とは、幾分、感じはちがうようですが。

今になれば、おかしくも思い出せますが、子供の当時は、やはり大変でした。ただでさえ邪魔な子供が、さらにうるさい友達をつれて来ようものなら、鬼のような表情で睨みつけて脅えさせるので、ほとんど友達を家にはつれて行かなかったのですが、大人になって小学校時代の友達から「怒鳴られた」との思い出話をされた時は思わず笑ってしまいました。

それでも何かのインタビューで、「子供たちが外で恥ずかしく思うようなものは絶対に書くまいと思ってきた」という父の答をきいた時は、素直に有難うと感謝の気持を持ったのをおぼえています。

家族にとって父の不機嫌は慣れっこになっていましたが、時には他の人でもこの生の井上靖にぶつかる不運の人もいました。父の低気圧は特に朝がひどく、ほぼ午前中一杯続きます。「この皿は嫌いだ、捨ててしまえ」から、家族の悪口。不機嫌の種が思いつかない時には五年、十年、昔のことまで。

「あの時の本がまだ返ってきていない。フミ(母)、すぐ返すように電話しなさい」

私たちは、朝の気分が壊される、と、さっさと父を避けていましたが、何もご存じなくて午前中、仕事の電話をかけてくる人には、けんもほろろの扱い。

家の者も自然にそこは配慮して、父には取りつがず、「ただいま、まだ寝(やす)んでおりますので、11時すぎにでも、もう一度」。長い年月の間に、井上家の朝はすっかり電話が鳴らなくなってしまいました。