現実の父ヘの反撥心が、そのまま本への反撥に
好きな父とは言えなかったけれど、その実、私は、中学、高校、大学、と学生時代を通して井上靖の作品の熱心な読者でした。父の書庫にこっそり入り込んでは、父の作品を片っぱしから読んでいました。作者が誰かに関係なく、ものすごくおもしろくて熱中しました。
週刊誌の連載を同時に何本も受けもっていた頃は、同じような筋だて、同じような主人公の作品群もありましたが、なんて上手なんだろう、と感心するものもたくさんありました。
瀕死の少女が「ムラビョフ」とつぶやくところから話がはじまる『黒い蝶』、おりょう、はやてと名前のひびきがスマートに思った『戦国無頼』、鋭くてどこか未完の作といった感じの『白い牙』など、子供の私が楽しんで読んだのですから、おもしろく書けているのでしょう。
子供嫌いの父のはずですが、何故か子供を主人公にした作品はどれも良いと思いました。『あすなろ物語』『星よまたたけ』『しろばんば』『夏草冬濤』。『白い風赤い雲』は、私から見ると次兄とその友達がモデルになっていて、父がいつ兄のことをこんなに細かく見ていたのか、と不思議に思いました。
けれど、いつの頃か、『風濤』あたりからか、私には父の本が素直に読めなくなっていきました。あまりに父らしく、息づかいまで聞こえそうで、現実の父ヘの反撥心がそのまま本への反撥になってしまうわけです。
父が年を取るにしたがって、晩年期の作品を読んでいないことが、父への負い目のようになってきましたが、これは仕方のないこと。いつかまた、今度は父をなつかしんでもう一度会いたくなった時、父の考えていたこと、感じていたことを本気で知りたくなった時、これらの作品に読みふける時が必ず来るでしょう。
大人になれば、親を見る目も変わります。父自身も、年と共に別人のように変わりました。今、私の胸を占めているのは、おだやかで、知識欲あふれる、ここ二十年来の父親像。
今、こうして文字を書いていると、文字に自信のない私に、「君のノートを見たけれど、全然、へんだと思わないよ」と言ってくれ、「どうしても自信がないのなら一字一字ていねいに心を込めて書いたらいい。それに勝る文字はないのだから」といった言葉が浮んできます。これは、どうしても人前で字を書かされる時の、逃げきれないで辛い私を大いに支えてくれています。