明智光秀 織田政権の司令塔』(福島克彦:著/中公新書)

信長の家臣として忠実だった

一方、光秀も信長に対して忠節を尽くす態度で臨んでいた。天正3年5月、島津家久を坂本城下で接待した際、いざ酒席になると光秀は同席しなかった。信長が武田勝頼と長篠合戦で戦っているようなとき「なぐさミのかたハ如何(このようなときに心を和ませるのはいかがなものか)」と述べて、酒席を遠慮したのである。

ここに光秀が信長の従者として忠実な姿勢を示していたことがうかがえる。同時に彼は、こうした自らの姿勢を、わざわざ第三者に伝えようとしていた。主君への忠勤ぶり、あるいは自ら決めた一定のルールを思わずアピールしたかったのであろう。

彼が定めた天正9年(1581)6月の軍法でも、へりくだって自らを「瓦礫沈倫之輩(がれきちんりんのともがら/つまらぬ身分のままで落ちぶれていた者)」と称しつつも、このような者を「召し出され、あまつさえ莫大御人数を預下さ」ったからには法度を守らない姿勢、あるいは武勇について無功の者は国費を掠め取るに等しいとまで言っている。ここでは、自らを登用した人物とは、やはり信長のことである。部下に対しては、信長への「上聞に達するべき」活躍を求めている。

天正9年12月4日付の家中法度では、京都近辺における明智家中の通行に際して「御宿老衆」「御馬廻衆」との路上でのトラブルを回避するため、挨拶の規定を提案している。なぜ、京都周辺の路上における他家との口論、喧嘩を強く意識するのか。それは「御座所分に対し、頗(すこぶ)る程近く」と明記されており、信長の傍で粗相がないよう振る舞わなければならないという頑(かたく)なな意思が読み取れる。