京都府京都市にある光秀の首塚(左)と胴塚(右)

光秀を信頼していることの裏返し

天正6年(1578)11月には、荒木村重が反旗を翻し、信長の摂津国出陣が決定した。その際、光秀は同国に信長の「御座所」を築く必要があり、「御住国に相定まり候」と述べている。そうなった以上は、速やかに村重の反乱を鎮圧すべきだと述べている。信長の御座所や滞在国をことさら特別視し、その空間は常に秩序立てておかねばならないという、光秀の強い意思と信念が読み取れよう。そして、それを丹波国衆小畠永明に積極的に語っており、国衆たちにも、その姿勢が伝わったことであろう。

よく言われるように、畿内・近国の光秀、中国方面の羽柴秀吉、北陸方面の柴田勝家は、おのおの独自の戦線を持ち、広域な範囲で権限を振るっていた。彼らは、排他的な支配権を有しており、織田家の部将でありながら、さながら独立した戦国大名のような存在であった。

しかしそのなかで、光秀は自らの権限を行使しながらも、常に安土・京都にいる信長を意識せざるを得なかった。家中法度も、光秀が主体でありながらも、常に信長の存在を念頭に置いた内容である。「家中」の法度を出しながらも、その法の上位には信長が存在している。だからこそ彼は文書等にいちいち信長への忠勤を記す必要があったのだろう。

その一方で、信長の弱点もしっかりと見抜いていた。元亀4年(1573)の義昭の京都退去の際、光秀は信長に吉田山における「御屋敷」構築を強く勧めた。これは、義昭に代わる公儀権力の主として、京都における築城を献策したのであろう。

しかし、朝廷や寺社勢力に対する気兼ねからか、信長は築城を結局実現しなかった。相変わらず少人数で京都へ向かう姿勢は、隣接する近江志賀郡、丹波を治める光秀を信頼していることの裏返しであったろう。換言すれば、織田権力の中枢にいた光秀だったからこそ、本能寺の変は可能だったのである。