いよいよ物語が盛り上がってきた大河ドラマ『麒麟がくる』。ついに来週には最終回で「本能寺の変」が描かれる。明智光秀(演:長谷川博己)と、織田信長(演:染谷将太)のぶつかり合いもさることながら、本能寺の変後の、秀吉(演:佐々木蔵之介)との対決が描かれるのかも話題になっている。果たして、光秀の最期は史料ではどう表されているのか。『
明智光秀』(中公新書)を著わした福島克彦(大山崎町歴史資料館館長)さんが、明智一族の運命について解説する
本能寺の変の一報が秀吉に
天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝に起こった本能寺の変を、はたして羽柴秀吉はいつ知ったか。
「京都に於いて上様御腹めされ候由、同四日ニ注進御座候」(天正10年10月18日付、秀吉書状写『金井文書』)とあり、6月4日としている。ところが、のちの天正18年(1590)5月20日付、秀吉朱印状には「三日の晩ニ彼高松表へ相聞」と記しており、やや早く3日の晩としている。ここで特筆されるのは、秀吉が信長横死の情報を信じ、「毛利氏がそれ(変)を知るよりも早く己れに有利な和睦を結んだ」ことであろう。6月4日には毛利輝元・吉川元春・小早川隆景宛に秀吉の血判起請文を提出し、高松城主・清水宗治の切腹と互いの分国を設定した上で和睦した。
一般に戦国期の前線では、流言飛語や敵失を狙ったデマが飛び交っており、うかつに怪しい情報に乗せられず、冷静に分析、対処することが求められた。ところが、秀吉は確信を持って変の情報を受け止め、独自の判断で素早く毛利氏と和睦したことになる。京都や畿内・近国との間によほど信頼し得る情報網を持っていたと考えられる。
6月9日に姫路を出立し、東上していた秀吉は、無事摂津国へ入り、6月10日の夜中には兵庫に到着したらしい。このとき堺にいた松井友閑に対して、「彼(かの)悪逆人」(光秀)の首を刎ねたいと鼻息荒く述べている。
秀吉が光秀の動向を把握していたように、明智方も秀吉の進撃を肌で感じていたに違いない。伝承の域を出ないが、光秀と行動を共にしていた斎藤利三は羽柴方の勢いを察知し、いったん退いて近江の坂本城に籠城するよう光秀に進言したという。しかし、これを光秀は一蹴した。
羽柴軍は京都へもっとも短距離となる西国街道を一点突破で攻め上がってきた。織田信孝(信長の三男)や丹羽長秀もそれに合流し始めた。こうした羽柴軍の攻勢に対して、光秀はすでに西国街道沿いとなる西岡の拠点勝龍寺城へ入った。こうして、いよいよ戦場は大山崎周辺に決することになる。