明智殺害に関する一次史料は豊富

戦いに敗れた明智方の兵はほうぼうへ逃げた。久我畷、西岡(西国街道)、桂川を渡って淀、鳥羽、さらには丹波路筋へも殺到したという。これらは一次史料でも確認でき、京都の吉田兼見は明智方の落ち武者が五条口あたりから、東山の白川、一乗寺辺へ逃げ惑う様子を記している。その際、路次より「一揆」が現れ、ある者は討ち取られ、またある者は追剥(おいはぎ)に遭った。

一時勝龍寺城に入った光秀も、夜陰に乗じてこれを脱出した。そして伏見周辺から小栗栖(おぐりす)を通って、坂本城へ向かった。しかし逃げる途上、農民に襲われて殺害されてしまう。

明智藪の碑(京都府京都市)

彼は合戦に敗退したのち、秀吉らから捜索を受けていたこともあり、その殺害に関する一次史料は比較的豊富である。

これらによれば、臨終の地も史料によって異なる。多聞院英俊の『多聞院日記』には、光秀は山科にて「一揆ニテタゝキ殺」れたとある。他にも「山科の藪の中ニかゝミ居」るところ、首を捕られたという(秀吉書状)。勧修寺晴豊の『天正十年夏記』では「明智くひ(首)勧修寺在所にて百姓取候て出し申し候」とあり、勧修寺の地名が見える。

『兼見卿記』では「醍醐辺」、『蓮成院記録』では「上ノ醍醐」で討ち取られたという。このように一次史料では有名な小栗栖の地名は出てこないが、『太田牛一旧記』には「おごろす」(小栗栖)において「がめつきやり(鑓)」で突かれ、「二、三町ばかりいきて」絶命したと記す。

つまり、光秀は小栗栖で致命傷を受け、勧修寺か山科周辺で亡くなった可能性がある。なお、フロイス『日本史』によれば「哀れな明智は、隠れ歩きながら、農民たちに多くの金の棒を与えるから自分を坂本城に連行するようにと頼んだ」という。当時は落ち武者狩りを乗り切るため、光秀も前もって「金の棒」を身に付け、逃亡の際の対処を考えていたことになる。光秀の首は溝に捨てられていたものが見つかり、のちに本能寺に晒されている。