現在の勝龍寺城跡(京都府長岡京市)

山崎合戦の火蓋を切った瞬間

光秀と親しかった吉田兼見によれば、6月12日、羽柴軍が大山崎より出撃したため、「勝龍寺西に於いて」明智方の足軽が立ち向かい、鉄砲戦が始まった。このときは近辺も放火され、すでに前日から前哨戦の様相が表れていた。光秀は10日段階で軍勢を大山崎に遣わしており、本来明智勢がこの要衝の地を占拠してもいいはずであった。しかし12日段階では、いつの間にか秀吉方の高山右近が大山崎の集落に入り、勝龍寺城へ軍勢を繰り出す状況にあったことになる。

先陣で大山崎に入った高山右近は、明智勢が間近に来ているのを知ると、血気に逸る味方の兵を抑制しつつ、後続の秀吉に対して速やかな来着を要請しようとした。しかしちょうどそのとき、明智勢が「村の門」を叩き始めた。右近はこの時点で意を決し、約一千名余の兵とともに「門を開き」敵を目指して突撃した。まさに山崎合戦の火蓋を切った瞬間であった。

明智光秀 織田政権の司令塔』(福島克彦:著/中公新書)

両者の戦いは申刻(午後4時)に始まった。このとき吉田兼見は「山崎表に至って、鉄放(砲)の音数刻止まず」と記している。雨の中、縦列で進撃してくる羽柴軍に対して、明智勢が鉄砲で迎撃する戦いであったと考えられる。

『太閤記』によれば、光秀は「おんばうか塚」まで本陣を移動して自軍を鼓舞した。しかし兵力の差を埋めることはできず、敗退は決定的となった。光秀の側近は光秀に、いったん勝龍寺城へ入り籠城するか、夜陰に紛れて坂本城へ逃れるかの二案を進言した。しかし、すでに狼狽していた光秀は「勝龍寺ハ何方(いずかた)そ」と、城の方向もわからなくなっていた。たまらず側近は自らが先に立って光秀を導いたという。