「母が足りない」という感覚

母はどんなに逞しくても、もともと裕福な大家族育ちという安定した基軸がある。しかし、私は子どもの頃から頼れる人間を持たず、常に社会を斜めに見ながら大人になってしまった厭世的な人間だ。合うわけがない。でも若いうちからあえて母と距離を取ったことで、価値観や物事の考え方がどんなに違っても、それぞれ誰に頼るでもなく自分の人生を開拓してきた身として、性格は合わなくてもお互いに良き話し相手でいられた、というのはある。

母と会話を交わせなくなって久しいが、時々「母が足りない」と感じることはある。それは母が恋しい、というのとは違う。母は母で人生のさまざまな荒波をくぐり抜けてきた人であることには変わりなく、私の些末な悩みに対していつも繰り返していた「大した問題じゃない」「まったくバカバカしい」「気にするだけ時間の無駄」「なんとかなるから大丈夫」といった大雑把で一見投げやりな言葉に、相手を安心させられる質感と説得力を込められる人は、そうそこらにいるものではない。

家族を含め、人との付き合いには、私たちの想像力が駆使される。私たち人間のメンタルは、自分と関わりを持つ人に対し、自分の便宜にかなう見方や捉え方で納得し、理解をしたつもりになり、好きになったり仲間意識を持ったりする仕組みになっている。でも時々、そういった妄想のデコレーションを盛らなくても、素のままで好感を抱ける人というのも存在する。

だけど、そういう出会いは、さまざまな人間との関わりによって経験値を高められた人に限られる。だから滅多にあることではない。考えてみたら、母と私も一緒に暮らした期間は短いが、その後それぞれ積み上げてきた苦労があったから、年を取ってからも互いを拒絶し合わない関係性を保ち続けてこられたのだろう。

相性の良さというのは、ある程度年を取り、自分や相手に対しあれこれ求めなくなってからのほうが実感できるものなのだ。