健気な母の姿を見てもなお、私はなまくらなままだった。高校受験でも大学受験でも第一志望校に落っこちたのは、神通力が実現しなかったからではない。私の努力と実力が足りなかったからだ。
もちろん、お参りが足りなかったからだと母が自身を責めるようなことはなかった。「残念だったね、でも良い学校に受かったよ」と、笑顔で励ましてくれた。
「やれることは全部やる」には謙虚な気持ちが必要
私も大人になり、自分の努力だけではままならないことが数多あることを知った。それでも、どうしても成就させたい願いごとがあるならば、後悔のないようできることは全部やる。効率が悪くとも、無駄な足掻きではないかとうっすら予感させるようなことでも。それはのちの自分に対する誠意であり、「やれることはやった」と言い切るための保身でもある。
そして、ふと気づく。やれることを全部やったあと、神様仏様に手を合わせたくなる自分に。母も、こんな気持ちだったのだろうか。
自分以外のすべてを思いのままには動かせない道理がある限り、「やれることは全部やる」には謙虚な気持ちが必要になる。さもないと、誰かを恨んだり、呪ったりになりかねない。ここから先は頑張り次第でどうにかなる話ではない、という明確な線引きがあってこその努力であり頑張りだ。
あの頃、母は母なりに、なまくら娘の自発性を尊重していたのだろう。私の横に座って、ボンヤリしていないか見張ることだってできたはずだ。しかし、母はそれをしなかった。夜食を作ったり、塾や家庭教師の費用を工面してくれたりはあっても。
神頼みは、他者との人格の境界線を認知し、自らの力が及ぶ範囲を誠実に認識した先に至る行為。己を神と買いかぶる傲慢な心が生まれると、純粋な願いごとは、瞬時に下衆なわがままへと様相を変えてしまう。願いが叶ったところで、元には戻せない歪(いびつ)さが残る。「あとは運を天に任せて」の前になにをどこまで全力でやるか。問われるのはそこだ。
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