わかってもらうよりもわかりたい

今から20年ほど前、南太平洋の島へ息子を連れて2週間ほど滞在したことがあった。

その島の住民のほとんどはメラネシア人だったが、滞在先で早速現地の子どもたちと仲良しになった息子は、彼らの公用語であるフランス語のマネをするようになった。つい文法だの発音だのを気にしてなかなか積極的に外国語を喋ろうとしない大人と違って、相手の言葉や文化を理解しようと思う子どもの感性は真っ直ぐで淀みがない。

相手が自分を理解してくれるのを待つよりも、こちらのほうから相手を理解しようと思う積極性を稼働させることは、実は外交だけではなくどんな人との接触においても大切なことかもしれない。とはいえ、馴染みのない世界観を受け入れるのは容易なことではない。相手が素っ頓狂な発言をしたり、思いもかけない行動に出たりしたとき、それがどうしてなのかを知ろうと思うゆとりが、我々には圧倒的に足りていない。喧嘩でも論争でも何でもそうだが、お互い自分を認めてほしいだけでは、そこには和解も発展も生まれない。

猫との意思の疎通は難しいが、少なくとも私が彼女を理解しようと努めているのは伝わっていると思いたい。朝、無言の猫パンチで餌を催促されるのも、そんな関係性の証だと勝手に判断している。