日本の《世間体》という戒律

先日、東京に住む知人から、地方都市で一人暮らしをしている父親がいて、腰痛が悪化し自由に動けなくなったという連絡があったものの、「コロナ感染者の多い地域から帰省すると、周りから非難されるので絶対に帰ってくるな」と言われ、どうしたらいいのかわからないという話を聞いた。

車を使わず、夜に着く列車でこっそり行けばわからないではないかと父親に提案をしたが断られたそうだ。「もしお前が来ていることがわかれば、父さんはもう近所付き合いができなくなる。そんな目に遭うくらいなら我慢する」と頑なだったという。

不意にこのイランの宗教警察の話を思い出した。

イランではイスラムの戒律が基軸となった宗教警察が存在し、民衆にイスラムの模範的精神で一体化することを強制しているが、日本でこれに当てはまるのが世間体というやつだろう。コロナ禍でなくても日本の人々は常にこの世間体の戒律に縛られて生きているが、民主主義という体制の下、人々はそれでも個人の自由が守られた暮らしをしていると信じ込んでいる。

しかも世間体の戒律は流動的で実態が見えない。社会性の生き物である人間にとって帰属する群れは必須だが、人々に個人の意識がある限り、群れを存続させていくための統制は容易ではないから戒律が必要なのもわかる。ただ、その戒律には、利他や寛容という人間らしい心の機能を粉砕する性質があることを忘れてはならない。

一人暮らしの父親が心配で仕方ない知人の不安と寂しさに満ちた表情が、かつて買ったばかりの新しいショールの受け取りを断った母親の話をしていた、イランの友人の悲しげな顔と重なった。