花菱アチャコとの名コンビ

昭和26(1951)年、天外との別離と時と同じくして、立ち上げから在籍していた松竹新喜劇をも退団。しばらくの間消息を絶ち、京都四条河原町近くの知人宅の2階を借りていた。『婦人公論』の企画で浪花千栄子の人生をたどった演劇研究家・戸板康二は、以下のようなエピソードを記している。

「NHK大阪局のディレクター冨久進次郎は、『アチャコ青春手帖』の母親の役に浪花を起用しようと思ったが、尋ね当らず、一杯飲みにはいった所で、『浪花さんを知らないか』と訊くと、『いま、そこの銭湯にはいって行きはりました』というので、飛び出して、湯屋の前で待ち、契約をとりつけたという」(「物語近代日本女優史 浪花千栄子」『婦人公論』昭和54年7月号)

花菱アチャコ(1897-1974)

昭和27年、ラジオドラマ『アチャコ青春手帖』で始まった花菱アチャコ(花車当郎のモデル)と千栄子のコンビは、続いて29年にはじまった『お父さんはお人好し』によって、一世を風靡することになる。作家は長沖一(まこと/ドラマでは長澤誠。生瀬勝久が演じる)。10年続いた人気番組だった。ドイツ文学者の池内紀は『婦人公論』に寄せたエッセイ「浪花千栄子という女」の中で、以下のように綴っている。

「毎週、この人と会っていた――正確にいえばラジオで聞いていただけなのだが、しかし、それは会っていたのにもひとしかった。(略)月曜の夜、8時からの30分番組だった。テーマ音楽が鳴りだすと胸がワクワクした。配役を告げるアナウンサーの声を上の空で聞いた。藤本アヂャ太郎:花菱アチャコ 妻おちえ:浪花千栄子…」(「浪花千栄子という女」『婦人公論』昭和61年5月号)