みねちゃんは大変な「お母さんっ子」。福井県敦賀市の出身ですが、予科生の時いつも寮で「母さん母さん」「帰りたい」と泣いていて、それを慰めるのが年下の私でした。「あと何日で帰れるから」って。週末ごとに1週間分の洗濯物を持って実家に帰っていました。
星組の「同期生トリオ」として
宝塚歌劇団に入団して1年目、研1の試験で私たちは植田紳爾先生に「見つけて」いただきました。一緒に星組へ配属され、「同期生トリオ」として売り出していただいたんです。
周りからは「3バカトリオ」なんて言われてましたけど、研2に上がるタイミングで新人公演の主役・準主役に抜擢。演目は『この恋は雲の涯まで』という和物で、みねちゃんは主役の源義経、ペイは乾王陵、私が藤原忠衡という配役でした。
研2の3人が主役や準主役を務めるのは前代未聞。「無謀だ」と反対する声もあったようですが、植田先生が「この3人でやる」とおっしゃって。
後になって、当時の組長と副組長から「私ら、首をかけたんよ」と言われました。植田先生の意志が固いと知り、「それなら」と自分たちの進退をかけて育ててくれはったんですね。
そんなこととも知らず、みねちゃんと私はお稽古の2人の場面で笑いが止まらなくなり、新人公演担当の先生が帰ってしまわれるほど怒らせてしまったり。もちろんプレッシャーもありましたが、先生方や先輩方に支えていただきながら、3人で支え合って何とか務めを果たすことができました。
みねちゃんは日舞が得意だったので、新人公演が和物だったのもよかったと思います。剣舞という踊りの、津軽三味線に合わせてフリに入るタイミングが難しくて、彼女が「1、2、3……」とカウントしてくれた。それでみんなが合わせられたんです。
そうして、予科生時代は「帰りたい」と泣いてばっかりだったみねちゃんがだんだん強くなり、同期とはいえみねちゃんとペイより2歳下の私は2人の後をついていくような感じになっていきました。その後、組が替わって会うことは少なくなり、私は「みねちゃん、頑張ってるな。すごいなすごいな」と思いながら遠くから見ている感じでしたね。
ライバル心ですか? 私にはありませんでした。みねちゃんのほうはどうだったのかな。私にとってのみねちゃんは、姉妹ほど濃密ではないけど、赤の他人ではない、ちょっと離れた親戚みたいな。ずーっと身内的感覚でいたので、ライバル意識はまったくなかったんです。