立花さんがオーディオに凝っていたころ、戸塚さんに贈った純金製のCD。名器・ストラディヴァリウスの演奏を録音した1枚(写真提供:戸塚さん)

立花さんとフランスで偶然の再会

それからしばらくして私は離婚した。そしてパリに旅立った。ワインのことを知りたくて。パリ暮らしは長くなり、現地で私は、ソルボンヌ大学の地理学の教授でワインに強いフランス人のピットと2度目の結婚をし、四年目には娘ができた。その間、立花さんにはずっとご無沙汰だった。

と、ある日、親しくしていたフランスワイン振興会(SOPEXA ソペクサ)の報道官のグッチェ氏から電話が入った。「日本のタチバナ・タカシというジャーナリストがもうじき来仏するが、タチバナは姓なのか名前なのか、教えてほしい。」という問い合わせであり、私は仰天した。説明した後、「実はタチバナは私の友人の1人ですが、もう10年以上も会っていません。パリでぜひ会いたいものです。」と話した。

グッチェ氏は私を初めてブルゴーニュのシャトー・ド・クロ・ド・ヴジョの「利き酒の騎士の会」に連れて行ってくれた方であり、家の夕食会にお招きすると年代物のワインや珍しいワインを持参し、私たちとの利き酒を心から楽しんでくださった方である。そのグッチェ氏のおかげで私の家で立花さんと再会した。さすがに立花さんも目を丸くされた。グッチェ氏からはピット夫人といわれていたらしい。

立花さんは初々しいM夫人と生後3ヵ月のMちゃんと長女のKちゃんを伴っていらした。

翌年、帰国した折、私とピットは小石川のお家に夕食に招かれた。玄関の戸を開けた途端、上りかまちに続く廊下にも階段の一段一段にも本がいっぱい。足の踏み場がないほど本があふれていた。後に、本のために3階建ての仕事場兼書庫「ネコビル」を建設。さもないと家族が寝る場所も失くなってしまったのではないか。「神田に出かけると、両腕で持ち切れないほどの本を何万円も買ってくるのですよ。」と、ある日、M夫人がそっとため息をつかれたのを私は憶えている。