さて、私たちの家のはす向かいには、18世紀の小さなシャトーがあった。ある年、このシャトーが売りに出た。1ヘクタールの葡萄畑つきである。フランスじゅうに、そしてブルゴーニュにもシャトーはあちこちに存在するが、シンプルで優美、そして小ぶりというのは少ない。しかも庭続きに葡萄畑がある。私もピットも一目惚れしたものだった。どこでもシャトーの値段はパリのアパルトマンと比べれば、驚くほど安い。パリのアパルトマンを売れば、このシャトーを買ってもたくさんおつりがくる。そうはいってもパリ暮らしを放棄するわけにはいかないし、このシャトーを買うような余裕はなかった。
村のニュースとして立花さんにシャトーの件を伝えると、なんとシャトーを一緒に買おう、というお返事。だが二家では資金が足りないから、もう一人誰かを探そうということだった。この時も、立花さんの電光石火の決断に私とピットは息を飲んだ。私たちは資金にするために、長屋の家を売った。そして3人目はなんと「亀の翁」の久須美さんだった。で、三家でワイン作りをすることになった。目的はシャトーの維持費の捻出のためである。シャトーの値段は安くても、維持費は高い。
4年間ワイン作りをした後、私たちはそれを断念した。これは実に実に悔しかった。そしてシャトーを手放した。
ワイン作りで学んだこと
ワイン作りには数え切れないほど学んだことや思い出があるけれど、一つ挙げれば初めて作った1996年産のシャルドネ種の白ワイン。これはめっぽう酸味が強かった。さいわい、たちの悪い酸味ではなかったけれど、すぐに飲めるようなワインではなかった。でも初めてのワインがこんなに酸味が強いだなんて予想がつかなかった。
ただ、後になって分かったことだが、96年産のブルゴーニュの白ワインの性格は酸味が強いことであり、ブルゴーニュでは知る人ぞ知るである。だが10年経つとピュリニーモンラッシェ村のワインのようにすっきりした辛口の素晴らしいワインになった。そしてさらに寝かせると、今度はコクのあるムルソーを想わせた。今はシェリーの白にも似たジュラの辛口風である。このように長持ちできたのは、ひとえに酸味のおかげである。このことを立花さんに伝えられなかったのは残念だ。
夏休みに立花家の隣人として過ごした年月は、10年ぐらいだったろうか。この間、ご自分の仕事や著書について、あるいは自慢話をなさるようなことはまったくなかった。だが、「新しいテーマに取り組む時は小学生の教科書から読み始めるということ。読み始めた本がつまらなかったら読むのはすぐにやめる、時間がもったいないから。」と、何かの折に言われたことがあり、忘れ難い。
その後はM夫人も立花さんも、取材や何かでパリにおいでの際は、私の家に立ち寄ってくださり食事を共にした。立花さんはルーブル美術館にある絵画『ヴィルヌーヴ・レザ・アヴィニョンのピエタ』をもう一度見たいと、パリにいらしたこともある。