「立花さんは、日本では〈知の巨人〉と呼ばれていたようだが、遠くフランスに住んでいる私には、〈知の巨人〉という言葉になじめなかった。ひそかに〈日本のラブレー〉に見立てていたせいもある」

立花さんと日本で再会して

2018年の2月25日、日比谷の帝国ホテルの地下にあるお鮨屋で私は久しぶりに立花さんにお会いした。翌日、大検査があるということで、お酒やお鮨は禁止、おひたしをほんの少し、飲み物は水と、食事の内容は寂しかったが、とてもお元気で、終始笑顔で、お話は弾んだ。「この頃、長女のKが上京するといつも事務所の掃除をしてくれる。今日は風呂を用意してくれてね。お父さん、戸塚さんと会うんでしょ。ちゃんとお風呂に入って、と言われたんだ。」そう話しつつ、鋭い目を細め、目が溶けてなくなってしまったかのようだった。この日、いちばん心に残るお話だった。

そして、その頃、発売されたばかりの『知的ヒントの見つけ方』をくださった。私は帰国するとまずは書店をのぞく。その本はどこでも山のように平積みにされていた。私がその本をバッグから取り出すと、「ハッハハ。」と嬉しそうでした。私は立花さんからたくさんの本をいただいたが、『知的ヒントの見つけ方』が最後になった。月刊『文藝春秋』の巻頭随筆をまとめたものだ。この日は2018年の4月号掲載の「江副浩正と私の不思議な縁」の校了のゲラを見せてくださった。

立花さんも私もリクルート社の創生期の頃、部門は違うけれどリクルート社の仕事をアルバイトでしたことがあり、江副さんの魅力をよく知っている。私たちは江副さんのことを話題にした。その頃、『江副浩正』という本も書店で平積みになっていて、「この本は面白いよ」とほめていらした。

だいぶ前のこと。婦人公論編集部から私と立花さんの座談会はいかがですかという提案があった時、私は即座に断った。理由は、私と話すことなど何もないよと立花さんは言うだろう。そう、思ったからである。でもだいぶ後になって、これは私の間違いであったと気がついた。

だいいち立花さんはどんな分野の人とでも、どんな職業の人とでも、どんなに知的レベルの程度が異なる人とでも、どんなに社会的に階層の違う人であっても縦横に話ができるのだから。とりわけ聞き上手で、話し上手。相手の中身をぱっと見抜き、話をひき出せるのだ。

政治、社会、法律、経済、教育、数学、哲学、歴史、科学、宇宙学、文学、美術、音楽、神学、コミニュケーションなどなど。立花さんのテーマの幅は広く、どの分野のものであれ、立花さんの本には迫力があり、興味深い意外性に富み、ぐいぐいと引きつけられて読まされた。

 

「知の巨人」ではなく「日本のラブレー」

日本では知の巨人と呼ばれていたようだが、遠くフランスに住んでいる私には、「知の巨人」という言葉になじめなかった。「知」という言葉は漠然としていてつかみどころがないように思えるから。立花さんを、ひそかに「日本のラブレー」に見立てていたせいもある。ラブレーは『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』の作家である。フランスのルネッサンス時代(16世紀)の初期を代表する作家であり、人文学者であり、医師でもあった。

この時代は、知りたいという知識欲と好奇心に爛々と燃え、貪欲に学ぶ人が続出した。ラテン語ばかりかヘブライ語やギリシャ語なども学び、古代ギリシャや古代ローマの古典や聖書を、原書でむさぼるように読んだという。

その知識の深さは、実際のところ、『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』やモンテーニュの『エセー』を読むと、歴史書に出てくる著名な人たちの名前を単に知るだけの私などにも感じ取れる。

ラブレーはパリをはじめフランスじゅうの大学を歴訪して学び、トゥールーズ大学で医学を学んだ。『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』は、16世紀から現代まで、世界的な古典として読み継がれている。