夢も希望もなかった貧しい子ども時代
とても貧しい少年時代を送りました。両親が離婚したのは、僕が10歳の時。病弱だった母は僕と当時3歳の妹と1歳の弟を連れて、家族で暮らしていた山梨県の家を出た。静岡などを経由して、最終的に親戚のいる山口県へ引っ越します。
でも母が計画していたとおりにはいかなかったのでしょう。市の母子寮に身を寄せ、生活保護を受けざるをえない状況になりました。仕方のないことだとはいえ、子ども心に、貧乏って嫌だなと思うことをたくさん経験しました。
たとえば中学校では、生活保護を受けている生徒には制服や教科書が支給されていたのですが、先生が無神経に僕の机の上にポンと置くんですよね。給食については名簿があって、給食代を払った人はマル、まだ払っていない人はバツと記号が書かれるのですが、僕のところには、サンカクがついていました。そんな日々を過ごすなか、誰に対しても心を閉ざしていたので、僕には友達がいませんでした。
毎日朝4時に牛乳配達、夕方は新聞配達。当時、放し飼いになっている番犬が怖くてね。それでも仕方ないから配達に行く。家計を助けるためというより、学校で使うものを買うお金がほしかった。友達が持っている筆箱とか筆記具がほしくても、苦労している母に買ってくれとは言えなかったから。
中学3年の時、僕ら一家は母の故郷である鹿児島へ引っ越し、母は乾物屋を始めましたが、相変わらず暮らし向きは苦しかった。僕は中学を卒業すると、集団就職で大阪へ行きました。