歌手になるなんていう発想もない
最初に就職した寿司店は、住み込みで月給5000円。いまの貨幣価値に換算すると5万円くらいでしょうか。あまりにも低賃金だったし、先輩からはいじめられるし。自分は長男なのだから働いて家族に仕送りするのは当然だ、というある種の正義感を持って社会に出たのに、ズルくなければ生きていけないのかと思うような出来事の連続で……。世の中、正義なんてないんだと落ち込み、こんなところにはいられないと1ヵ月で店を辞めて鹿児島へ戻りました。
その後は職を転々と。調理師見習いをしたり、キャバレーでバンドボーイをしたり、鉄工所や運送業、飲食店で働いたり、17種類くらい仕事をしたかな。住み込みで働けるなら職種は何でもよかったんです。とにかく一日も早く一人前に稼げるようになって、そして、母と一緒に暮らしたかった。
当時の僕の生活は、職場で働いているか、住み込み先で寝ているか。これといった楽しみもなければ、将来の夢もない。ただ母には、「僕が大きくなったら、門から玄関まで距離のある大きな家に住まわせてあげる。お母さんは大きな座布団に座って何もしなくていいよ」と言っていました。
歌うことは好きでしたが、テレビを観たことがなかったので歌手になるなんていう発想もない。仮に憧れていたとしても、東京はいまの感覚で言えばニューヨークくらい遠かった。第一、どうやったら芸能界に入れるのか皆目見当もつかない、そんな時代の話です。
個性的な声で勝ち抜いてデビュー
――苦労の連続だったが、人生の転機は近づいていた。再び大阪に出て串カツ店で働いていた時、お客さんから「君は東京に行けばいいのに」と言われた森さんは、芸能界に関心を持つようになり、18歳で上京。居候先の叔母に勧められ、のど自慢大会に出場すると5週連続で勝ち抜き、優勝を果たす。
アントニオ古賀さんの「その名はフジヤマ」とか、安達明さんの「女学生」などを歌いました。のど自慢大会の審査員だったチャーリー石黒さんにスカウトされて弟子入りしたのですが、なかなかプロになれなかった。
洋楽に長けておられたチャーリーさんによれば、僕は個性的な声の持ち主。でも一般的には、僕のハスキーボイスは「ありえないかすれ声」として、当初酷評されました。