イラスト:川原瑞丸
ジェーン・スーさんが『婦人公論』に連載中のエッセイを配信。今回は、良い方向にも悪い方向にもブレる「プライド」というシロモノについて。(文=ジェーン・スー イラスト=川原瑞丸)

守るに値するものは、プライドよりディグニティ

「プライドを賭けた闘い」という言葉がある。裏を返せば、敗者のそれは損なわれるということ。つまり、プライドは他者が棄損できる類のものなのだ。闘いというシステムに勝者と敗者を産み落とす業がある限り、これは自明の理。

私にも、そんな危ういものを賭けてまで業の深いシステムに身を投じたことが何度もある。拳と拳を突き合わせる喧嘩ではなく、仕事のコンペやプライベートの競り合いなど、まっとうに生きるにあたっては取るに足らないことばかりだったけれど。

運良く勝てた時、私が手に入れたのは、自己肯定感より優越感だった。闘いに挑む前は、喉から手が出るほど自己肯定を欲していたというのに。揮発性の高い優越感に、私はいつもラリッてしまっていた。プライドを語る時、そこにはいつも他者がいた。

守るに値するものは、プライドよりディグニティだ。そう考えられるようになったのは、40歳を過ぎてから。ディグニティは、誇りや尊厳や品位を意味する。ディグニティは他者から棄損されることがない。なぜなら、己の内面で培うものだから。

とある知人の振る舞いを見て、胸がつぶれる思いをした。不躾な他者から、何人たりとも踏み込んではならぬ領域に足を突っ込まれているのに、平気な顔でいるのを見てしまったのだ。感情をむき出しにするのは負けと思っているようにも見えた。つまり、知人が賭していたのはプライドだ。棄損などされていないと、アピールしたのだ。へっちゃらなフリなんて、傍から見ればスカしているだけだとすぐわかるというのに。