蒸し暑い夜、黒い塊が迫ってきた
私が子どもの頃、父母は地元の大学の学生寮で学生の世話をする仕事をしていた。そのため私たち家族は、何棟かある寮の中でもいちばん奥に建っていて、うす暗い林に隣接した建物に住んでいた。いつもじめじめして水はけが悪く、壁紙には黒いカビが点々とついていて、拭いても拭いてもとれないシミもついている。
ある夏の夜のこと。私が学校の授業でわからなかったところを復習しているうちに、午前2時になっていた。寮の消灯時間は夜12時。部屋から出て廊下を歩く人たちももうおらず、静まり返っている。私もベッドに入ってやっと眠れると思ったのに、蒸し暑くて何度も寝返りを打つ。2段ベッドの上にいる弟に声をかけてみたが、もう寝入ったのか返事はない。
その時だ。何か遠くのほうから来た圧倒的な力で、私の体がベッドの上に押しつけられた。これが金縛りというやつか!? どんなに力を入れても手足が動かない。「助けて」と叫ぼうとしても声が出ない。暗闇のなか、頭は冴えていて、唯一動かせる目をじっと凝らしたところ、壁の前に真っ黒い塊が見えた。
確かに何かがいる。その黒い塊はだんだんと大きくなって近づいてくる。おそろしいのに目をそらすことができない。とうとう寝ている私の横まで迫ってきた。それは見上げるほどの大きな男で、なんと鎧を着て兜をかぶった武者だった。
その武者がじっと私を見つめている。私はおそろしいという恐怖心と、井戸の底に深く深く吸い込まれていくような、今まで味わったことのない寂寥感に圧倒された。その時、声でもないのにある言葉が胸の奥のほうに低くはっきりと響いてきた。
「私のことを覚えておいてほしい。私のことを忘れないでほしい……」