革命的デザイナーを目指していた頃(自意識過剰時代) 1969年

革命的デザイナーになる決心

苦労してお金を貯めて入学したのに、3ヵ月でシャットアウトされ、お金も返してもらえません。「こうなれば仕方がない、実地でデザインを学ぼう」と思い、工場を辞めて、新聞の求人欄で見付けたディスプレイの会社に就職しました。グラフィックデザインがやりたかったのですが、看板のデザインが主な仕事だったのでガッカリしました。

この頃から左翼系のデザイン理論誌『デザイン批評』を購読するようになり、革命的デザイナーになる決心をします。それまで、心の奥にしまって誰にも言わなかった母親のダイナマイト心中が、自分のデザインの原点だと思うようになり、横尾忠則さんや粟津潔さんの影響もあって、死のイメージや土俗的なイメージをデザインに取り入れることを考えるようになりました。たまにディスプレイのデザインを任されると、おどろおどろしいパース画を描いて、「何? これ?」と上司からいぶかしがられたりしていました。

母親がダイナマイト心中しているということで、自分は表現することが許されているという傲慢な考えを持つようになり、自分のデザインが拒否されると、心の中で「お前らにわかってたまるか」と思っていました。自分が芸術家になったような気になっていたのです。

周りの人たちは、ぼくのことを馬鹿だと思っていたと思いますが、ぼくのデザイン論を真剣に聞いてくれる人が1人だけいました。僕より少し遅れて入ってきた近松さんという人で、2人でよく喫茶店に入って、時には朝まで話すこともありました。ぼくがノートに書いた観念的なデザイン論を読んでくれて、「気持ちが逸っているだけなのではないだろうか」と、やんわり批判してくれました。それまで人には言わなかった母親のことも、近松さんには話しました。そういう話ができる友達ができたことで、気持ちがずいぶん楽になりました。

会社でただ一人の友人だった近松さんが、突然会社を辞めてキャバレーに転職しました。会って話を聞くと、蒲田にあるキャバレーの看板やポスター、チラシなど、すべて一人で作っているようで、それをチェックする人がいないらしく、やりたい放題の自由なデザインをしていました(海と黒い太陽と咲き乱れるハイビスカスの花をバックに、フェラチオしている女がいるポスターとか)。

近松さんが作ったポスターを見せてもらって、こんなに自由にデザインができるのなら、ぼくもキャバレーに行こうと思い、都内に数店舗あったキャバレーチェーンの宣伝課に転職することになります。しかし、そこは近松さんがいるところとは違って、従業員が20人もいて、課長や係長までいる普通の会社でした。