グラフィックデザイナーになるために

新宿だったと思いますが、町に貼ってあったデザイン学校のポスターが目に入り、グラフィックデザイナーという職業があることを知りました。漫画は無理だとしても、グラフィックデザインなら、会社に行かなくても絵を描いたりして生活できるのではないかと思ったのでした。グラフィックデザイナーの横尾忠則さんが脚光を浴び始めた頃です。

グラフィックデザイナーになるには、専門学校に行くのが先決だと思い、昼間は工場があるので、デザイン学校の夜間部に行こうと思いました。マスプロ教育の学校には行きたくなかったので、渋谷の松濤町にある小さな青山デザイン専門学校に決めました。

入学金が高かったので、牛乳配達のアルバイトをすることにしました。朝4時に起きて牛乳配達をし、8時から工場で働き、夜は日美のレタリング通信講座でレタリングを習ったり、目覚し時計の組み立ての内職をしたりしていました。寝る時間があまりなかったのですが、工場で昼寝ができるので助かりました。

青山デザイン専門学校の商業デザイン科(夜間部)に入って2ヵ月ほど経った頃、校舎が松濤町の一軒家から桜丘町のビルに移りました。その頃から学校が不穏な空気になり、生徒たちがビルの壁に絵を描いたり、窓から垂れ幕をぶら下げたりするようになりました。

そして突然バリケードができて、学校に入れなくなったのです(「青デ闘争」と言うそうです)。東大安田講堂が学生たちに占拠されたり、日大全共闘が結成されたりしていた頃で、そういう学生運動の余波が、小さなデザイン専門学校にも押し寄せていたのです。