文化人のみなさんとゴールデン街で。1981年

ピンクサロンの看板を描いてもらえないか

当然ながらぼくがデザインしたものは評判が悪く、課長から「こんなもので客が来るか!」と怒られてばかりでした。1年ほど勤めたのですが、キャバレーで自由にデザインすることは無理だと思い、辞める決心をしました。辞める前に、押さえつけていた気持ちを発散させるかのように、自己表現としてのストリーキング(裸で町を走り、ペンキを被って道路を転げ回る)をやってキャバレーを辞めます。

ストリーキングをした後は自分がもぬけの殻になったようで、何をしていいのかわからず、アパートで悶々としていました。収入は同棲していた彼女(のちの妻)に頼っていましたが、やはり自分も働かないといけないと思って、ガラスにクラシックカーやヒョータンなどの絵をトレースして、裏から金箔を貼って仕上げる内職を始めました。

それを額に入れて装飾品として売るそうで、1枚作ると1500円から2000円(現在の3500円〜4500円ぐらい)で買い取ってくれるのですが、仕上がるまで2日ほどかかるし、仕上がりにミスがあると買い取ってもらえないので、生活の足しにもなりませんでした。「自宅で出来て高収入」への道はなかなか厳しいものです。

ある日、キャバレー時代の知り合いから電話がありました。自分が店長をしているピンクサロンの看板を描いてもらえないかという依頼でした。願ってもない仕事でしたが、看板を作る作業場もクルマも持っていないので、アパートで看板を描いて電車で運んでいました。看板以外にもメニューや壁面パネルも書いていたので、わりと「自宅で出来て高収入」になりました。

それに加えて、エロ本の出版社に入ったキャバレー時代の同僚から、今度出す雑誌にイラストを描いたらどうかという電話がありました。これもまた願ってもないことでした。イラスト以外にもデザインや書き文字なども頼まれ、徹夜になることも度々ありました。そのうち他の出版社からも仕事を頼まれるようになり、やっと「自宅で出来て高収入」な暮らしに近付いてきました。住まいも、祐天寺のアパートから経堂のマンションへ移ることができました。