井ノ川



 宵の口の空は紫がかり、西日が当たる雲の際は金色だった。大勢の生徒が校庭に出ていた。二日間着続けたクラスTシャツを脱いで、制服姿に戻っている生徒もちらほらいる。これから花火をやる――もう少し日が落ちてから。おそらくあと十数分以内に。九月を前に日の入りは早まっていた。これからは、どんどん先細るように昼間が短くなり、曇天(どんてん)が増え、風は肌を切り、初雪が舞う。五時間目で蛍光灯が必要になる。校庭のすぐ隣、今年も様々な野菜を実らせた高橋家の畑もひっそりと眠りにつく。そして私たち六組の生徒は、推薦入学を取りつけた要領のいい例外を除いて受験勉強にいそしむのだ。
 若いころは一瞬だ、かけがえのない時間だと焦らせるくせに、なんだって受験などに時間を割かせるのか。これに対する明確な回答を、社会は用意していない。
 スピカがそろそろ輝く。花火よりもそちらが見たい。私は西空に目を凝らす。
「三年六組のやつ、集合」
 磯部の叫びが校庭の向こう端から聞こえる。学校祭実行委員なんて面倒でしかないのに、彼は自分から手を挙げた。私の記憶が確かならば、修学旅行のクラス委員もやっていた。委員が好きなのか。推薦目当てか。磯部の心境なんかに興味はないからどうでもいいのだが、雑務に追われて個人で楽しむ時間が減るのに、よくやる。
 高校最後の学校祭は大変だったけれどみんなのために頑張った、みたいな既成事実を作りたいとか? かもしれない。磯部はクラスの中心になるようなやつじゃない。甲子園でベンチ入りできなかったアルペンからの応援組だ。よくてお情けで背番号十八をもらえるかどうか。ならば実行委員は志願しての思い出代打というところか。エースナンバーのこちらからすれば、そのあがきはなんだかお気の毒でもある。
 それにしても、花火なんて好きなところで見ればいいのに、クラス単位で固まらせるのは、その後にもう一つイベントがあるからで間違いない。誰が決めたのかは知らないが、年間予定表を見たときは、本当に驚いた。昭和かと。
「花火って何時に終わるんだっけ?」
 横から話しかけてきたのは木下だった。トーンが高くて可愛いと、その声は男子の間で一定の評価を得ているようだが、私には甘ったれているようにしか聞こえない。畑から吹きつける風に、木下は口を尖(とが)らせた。たぶんアイロンとスプレーで整えた髪が乱れるのが嫌なのだ。木下の後ろには我妻と安生もいた。ちょっとだけ一人になりたい気分だったのだが、結局いつもの面子(メンツ)が揃った。

「知らない。花火打ち上げ終わったときじゃないの」
 そっけなく答えたが、木下は問いを重ねてきた。
「誰が打ち上げんの?」
「花火師じゃない?」
 すると、ちょんちょんと小鳥に啄(ついば)まれるみたいに背中をつつかれた。
「集合しねえの?」振り向くと、どこかドヤ顔の花田がいた。「磯部が呼んでるじゃん」
花田の隣には嵯峨と中山。学校中の男子の中でもトップクラスで目立つ三人だ。学校祭の締めくくりの時間帯に彼らから話しかけられるのは、当然と言えば当然だった。彼らに釣り合うカーストは、私たちしかいないのだから。
「井ノ川。吹奏楽部の演奏会、観たぜ。最後の曲、何か聞いたことあったな。ノリ良くて笑ったわ。おまえも目立ってたしな。一人だけ違う楽器でさ。何ていうんだったっけ、あれ」
「エル・クンバンチェロ。私はあの曲ではピッコロを吹いた」中盤にピッコロとフルートがメインを張る部分があるのだ。「ありがとう。興味ないくせによく来たね」
「興味ないとかなんでわかるんだよ」
「観たって言ったでしょ。演奏会は聴くものだよ。付き合いで来てくれる人は、観るってつい言っちゃうんだよね。だからわかる」
 とはいえ、花田たちが来たのだとしたら、悪くはない。興味もないのに来させるだけの力があるという証明だから。
 さりげなく唇を触る。鏡が見たい。演奏会のときは塗っていなかったリップを、クラスTシャツから制服に着替える際に塗ったのだが、今もきれいだろうか。
「なあ、集合しないの? ここで花火見ちゃうの?」
「磯部の集合ってあれでしょ?」木下が口を挟んでくる。「花火の後、タイムカプセル埋めるから集まれってことでしょ?」
 それだ。タイムカプセルを埋めただの、成人式の日に掘り起こしただの、話には聞いたことがあったが、まさか当事者になるとは思わなかった。学校祭の最後を彩る花火が終わった後、三年生は各クラス単位で各人好きなものを入れたタイムカプセルを、校庭の隅に並ぶ白樺のあたりに埋める予定だ。磯部が「思い出になるものを。あるいは、十年後の自分に宛てたメッセージでもいいです」などと言っていた。中に入れるものを『トラベラー』などとつまらない呼称をつけて。下らない。それにしても、平成に年号が変わって何年経つと思っているのか。誰がこのイベントを考えついたのか。ダサいという言葉が既にダサいが、このタイムカプセルイベントは、まさにそれにぴったりのダサさだ。
「嵯峨は何を入れるの?」と言って安生はひらめいたという顔をした。「わかった、ユニフォームでしょ」
 嵯峨はサッカー部で左サイドバックだった。もちろん引退済みだ。安生はサッカー部のマネージャーだった。でも二人は付き合っていないと言っている。少なくとも今は。これからはどうだろうか。そこそこお似合いではある。準主役級同士で。
「えー、そんなん入れるかよ。アホくせえ」
 嵯峨の「アホくせえ」が口火を切った。花田が続いた。
「だよな。俺なんも持って来てねえわ」
 花田の次は中山だった。「十年後の二十八とかおっさんじゃん。おっさんになった俺へのメッセージとか、ヤバくね」
「腹出てきてますか? とか書けばいいんじゃね」すぐ嵯峨が返し、馬鹿笑いが宵闇の空に響き渡った。木下たち女子も笑って同調した。
「別に自分宛じゃなくてもいいんじゃないの? 例えば南宛でもさ」
「十年後、先生死んでたりして」
「南とか面白くないよ。ジジイだもん。やるならやっぱキシモト宛でしょ」
「え、今も相変わらず不細工のくせにウザいんですか? とか?」
「そう。ブスで恋愛脳とか、終わってるんだよね」
「出た、木下の正論でぶん殴るの」
「花田もとんだもらい事故だよな」
「やめろ。あいつの名前も聞きたくねえ」
「そうだよ、花田が気の毒すぎる」
 集合を促す磯部の声はまだ聞こえる。集まりが悪いのか。クラスの何人ぐらいが素直に集合しているのか。人波の向こうに目を凝らしたが光が足りなかった。日はすっかり落ち、生徒たちは青白い影みたいだ。
 いきなりドンという炸裂音がした。最初の花火が上がったのだ。オレンジ色の火花が低い空に広がる。さすがにどよめきが起こったが、冷静に眺めれば火花の密度が薄い。形もいびつな球形で、いかにも公立高校の学校祭といった感じだ。
 ただ、それでも楽しんでいる生徒が大多数だ。
 そんなものなのだろう。今しかないという意識が、見るもの聞くものすべてを特別だと錯覚させる。ついでに、そんな場にいる自分も特別だと勘違いするのだ。学校祭とか青春とか、罪作りなものだ。
 ここにいるどれほどが、十年後特別になっているのか。
 どうせモブの人生を送るのに。