「防大女子」が生まれた理由

防大への女子の入校が認められたのは、政治的思惑によるところが大きかった。国会で初めての女子学生をめぐる議論が確認されるのは1979年3月の参院予算委員会だ。

整列し、それぞれの教場へ向かう「課業行進」。防衛大学校内で一日二回行われる(写真提供:著者)

 

各省庁に対して女性への門戸開放を確認する流れの中で、山下元利防衛庁長官(当時)は「防大は戦闘部隊の上級指揮官、幕僚としての能力とかを訓練するわけで、訓練内容、環境等から見て従来は婦人に適さない」と答弁。その上で「前向きに検討していきたい」と述べている。

このような政府の見解は脈々と引き継がれた。また、門戸開放を求める側としても、女性の能力そのものに期待したものでは決してなかった。国会では以下のような意見が飛び出している。

「先頭に立って兵隊を指揮するだけが将校の任務ではない。(女子にとって)厳しいからということについては、各国がどのようにこれを聞くかということになると疑問に思う(1985年6月、参院外務委員会にて黒柳明氏)」

「国立の大学あるいは官界というものは民間に与える影響というものが大変に大きい。しかも、男女平等という観点については、官の方が先にイニシアチブを取って民に影響を及ぼしていくという要素がある。したがって、防衛大学も女性が志望してくることは数としてはごくまれであろうが、開放を検討していただきたい(同上、抜山映子氏)」

「男の立場からして、女子学生が入ってきたら自衛隊を見る目が変わってくるし、また防大に行ってしっかり国の安全を守ろう、そうすればいい嫁さんももらえるかもしれぬとか、いい方向に考えていった方がいい(1990年5月、衆院内閣委員会にて鈴木宗男氏)」

つまり、女子の入校は男女平等、国際情勢を踏まえての要請であり、挙げ句の果てに女子学生は「男子学生のお嫁さん候補」とまで見られていたのだ。そして結局のところ、1985年に政府が女性差別撤廃条約を批准し、当時の総理府に立ち上げられた「婦人問題企画推進本部」が国家公務員の女子受験制限解消を求めたことにより、防大への女子の入校が避けられない流れとなっていった。