公表の1年ほど前から自覚しはじめて
そもそも、「僕も認知症になりました」と、認知症専門医だった父が公表したのは17年の秋、88歳のときでした。川崎市で行われた講演会でお話ししたところ、「認知症の専門医が認知症になった」と、世間の注目を集めることになりました。
「どうもおかしい」と、自覚したのは、その1年ほど前からだったようです。1人で出かけたときに、電車の乗り場やエレベーターの場所がわからなくなったり、講演先に向かう途中で道に迷って焦って転び、右ひじを骨折してしまったこともありました。
父の許可を得て当時の日記を読ませてもらうと、「講演中、自分が何を話しているか時々わからなくなった」と書かれている。「大丈夫だぞ」と、自分に言い聞かせるような言葉もあり、変化にとまどいながらも奮闘していた様子が伝わってきます。
その頃、一緒に仕事をしていた方々も、父の変化を感じていたようです。もの忘れが激しくなり、講演中に同じことを何度も繰り返す。久しぶりに会った昔の仲間に、「君は誰?」と問いかけることもあったと伺いました。
父自身や家族は当初、「アルツハイマー型認知症だろう」と思っていたのですが、父の一番弟子である和光病院の今井幸充先生に詳しい検査をお願いしたところ、アルツハイマー型ではなく「嗜銀顆粒(しぎんかりゅう)性認知症」だと診断されたのです。
聞き慣れないタイプですが、「嗜銀顆粒」という物質が脳神経細胞に蓄積することで発症する認知症とのことでした。幸い進行が比較的ゆるやか。病によりこれまでできていたことができなくなったとしても、できる限り父のやりたいことをサポートしていこうというのが家族の思いでした。
認知症であることを公表してから、父の元には取材の依頼が殺到しました。コロナ禍の前でしたし、もともと人に会うことが好きだった父にとって、メディアの方たちと会うのはよいリハビリになったのでしょう。「自分の体験を語ることで、お役に立てれば」と、喜んで引き受けていました。隣で聞いていると、「話が横道にそれている」「同じことばかりを繰り返している」とハラハラすることもありましたが、父は懸命にメディアの方に向き合っていたと思います。
長年の行きつけだった喫茶店や床屋さんにも、よく訪れていました。お店の方に事情を話していたので、認知症になる前と変わらず接してくださり、ゆったりとした時間を過ごせていたようです。また、父は若い頃から映画が好きでしたから、一緒に映画館に行ったり、美術館に展覧会を見に行ったりすることもありました。
そういえば、映画のクライマックスシーンで「トイレに行きたい」と言われて慌てたことがあったんです。そんな出来事も含め、一緒に笑って「楽しかったね」と言い合う時間はとても充実していました。それに、週1回でも私が父を連れ出せば、父の世話に追われる母の負担を少しでも減らすことができますから。