亡くなった実母にもお金は使いたくない
私と義妹は、ほぼ同時期に結婚した。結婚して間もない頃、義母が着物と帯を譲りたいと、私たち嫁2人を家に呼んだことがある。大島紬の着物や西陣織の帯など、高価な品を並べ、どれでも好きなものをひとつずつ選びなさいという。
義妹はそのときも、自分の好みではなく、並べられたなかで一番高いものを選ぼうと必死だった。義母がそれぞれの品の思い出を、懐かしそうに語っていても上の空。あとで「あの子、ネットオークションとかで売っちゃうんじゃないかしら」と義母は肩をすくめていた。
義母から、こんな話も聞いた。義妹の母は、3年ほど前に亡くなった。しかし、義妹は四十九日をとうに過ぎても納骨せず、お骨をリビングのテレビ棚に無造作に置いているというのだ。
亡き人に未練があってとか、墓がどこもいっぱいで予約待ちとか、あるいは「手元供養」だというのなら、まだ救いようがある。けれど、義妹は、「墓代もバカにならない。死んだ後にお金をかけても仕方がないですから」と言ったそう。身も蓋もない。
同じ理由で、ご母堂の葬式もせず、病院から火葬場へ直行する「直葬」という形をとったらしい。信心深い義母は、「きちんと納骨しないと、成仏できないわよ」と嘆く。
私も寂しい気持ちになった。義妹に対し、哀れみすら感じる。彼女のように考えていては、誕生日や還暦などのお祝いも無意味だし、初詣や縁起を担ぐ行事のすべてが否定されてしまう。突き詰めれば、生きていること自体、何の意味があるのかという空虚な気持ちに行き着くのではないだろうか。
行き過ぎた合理主義というか、実利主義が災いし、義妹は親戚と没交渉になってしまっているらしい。しかも彼女は、歯の治療や運転免許の取得など、お金のかかることは、意図的に結婚後へとずれ込ませた、と得意げに語ったこともある。私の両親は彼女とは正反対の考え方で、婚家に負担がかかるといけないからと、治療や免許取得などはすべて、結婚前に済ませるようにと言っていた。それが誠意だと思っているのだ。
今ならはっきりとわかる。金銭というのは結局、人と人とをつなぐものなのだ。義妹は「友だちができないのが悩みだ」と言っていた。一事が万事この調子では、当然だろう。
自分のなかに、せこい気持ちが湧き上がったとき、私は祖母の言葉を思い出す。「チョコレートを得た代わりに、何を失ったかわかりますか」。義妹は、一時のちょっとした得と引き換えに失っているものの大きさを、きっと知らないのだろう。