弥一(やいち)の顔が思い出されて、飴の味が苦みに変わった。数年前に別れた元夫― 野々原(ののはら)弥一は、金がなくなるとわたしの元へ来て、ありったけの金を持っていく。それが家賃であろうとわたしの食費であろうとお構いなしで、少なければいますぐ金を作ってこいと暴れる。三週間前にも、冷蔵庫の中身を好き放題飲み食いしたあげくに、貰ったばかりの給与を半分奪っていった。それがないと困るから止めてと縋(すが)ると、頬を打たれた。お前がどうしてもって言うから離婚してやったんだろ。おれが少しばかり持っていくことに、何の不満があるんだ。手加減のない平手打ちは顔の形を変え、しばらくはマスクなしでは外出できなかった。
 弥一から、逃げたい。でも、逃げ出すための金も、気力もない。去年、必死で隠し通した貯金を使って夜逃げ同然で引っ越したけれど、何をどう辿(たど)られたのか半月もせずに居場所を特定された。買い物に出ようとすると弥一が玄関の前に立っていて、わたしを見てにんまりと笑った。かつては愛(いと)おしいと思った八重歯がぎらりと光り、その瞬間死を覚悟したけれど、命だけは助かった。
 その代わり、大きな青痣がいくつもできるほど、執拗に殴りつけられた。胃の中のものをげえげえと吐き出すわたしを見下ろして、この痛みを覚えてろと弥一は言った。何度逃げても同じだからな。おれはな、おれの傍にいた奴がおれの許可なしに勝手に離れていくことは許さねえって決めてんだ。だからお前も、絶対に離れていくことは許さねえ。逃げたくなったら、この痛みを思い出せよ。くだらねえことは考えるな。
 七つ上の弥一とは、高校卒業後に入社した中古車販売店で出会った。わたしは事務員で、弥一は社内でトップの成績をキープする営業部員だった。アイドルのような爽やかな容姿と、やわらかな接客態度。女性人気が高く、弥一からじゃないと買わないというひとすらいた。いずれは店長、そう言われていたけれど本人はそれを笑って聞いていた。おれはこんなちゃちな会社に長くいるつもりはないんだ。いつか、何かでかいことをやるつもりだ。付き合い始めのころから、口癖のようにそう言っていた。
 仕事はできるし、向上心もある。性格は明るくて、ひとに好かれる。消極的でネガティブ、人づきあいが得意ではないわたしと対極にいる弥一は、ただただ眩(まぶ)しい存在だった。そんな彼がどうしてわたしを見初(みそ)め、選んでくれたのか、最初は不思議でならなかった。

『君は控えめだし、男を立ててくれそうだな、って。実はおれ、内助の功って言葉が好きなんだ。昭和の男みたいな古いこと言ってる自覚は、あるんだけど』
 でもそういうのにどうしても憧がれてしまう。頬を染めて照れたように言われたときに、淡く感動した。高校を卒業するまでずっと、わたしの通信簿には『もう少し自己主張をしましょう』と書かれ続けていた。教諭たちは主張の声が大きな子ばかりを褒めそやしていたけれど、わたしはどうしても彼らのようになれなかった。こんなわたしはきっと誰にも見つけてもらえずひっそり生きていくのだろう、そんな風に思っていた。けれど、欠点を美点として見出してくれるひともいるのだ。
 生まれて初めての恋愛は――他の例など知らないけれど――とてもうまく進んだ。弥一はとてもいい恋人だったと思う。そして、結婚願望の強かった弥一の希望と、唯一の家族だった祖母を喪ってひとりになってしまったわたしの孤独もあって、周囲が驚くほど早く、結婚まで辿りついた。
 わたしだけでなく弥一も身内と縁が薄かったし、弥一が華やかなことを嫌ったので式は挙げずに婚姻届を出しただけだったが、少しの不満もなかった。わたしを心から愛してくれる、しかも一生傍にいてくれるひとがいる、それだけで十分なくらい幸福だった。
 しかし、わたしの幸福は長く続かなかった。
 何か、でかいことをやる。その『何か』を探して、弥一はさまざまなものに手を出し始めた。貯金を使って株やFXをやっているころは、まだよかった。お金は貯まりもしなかったけれど、規模が小さかったお陰かげで大きく減ることもなかった。それに、会社員としての収入があったから、生活には困らなかった。
 しかし、居酒屋で知り合っただけの胡散臭い男に唆(そそのか)されて、会社を辞めて起業すると言いだしてからは違った。最初は、爬虫類専門店。芸能人の間で人気が出始めており、すぐにブームが来るはずだという不確かな情報だけで始めた店だった。待ちわびたブームは一向に来ず、専門知識がろくにないせいでトラブルだけが起きた。高いお金で仕入れた生体(せいたい)は売れる前に死ぬし、温度調節を間違えて気付いたら生体の半分以上が凍死していたということもあった。そんな経営がうまくいくわけもなく、爬虫類専門店は一年もせずに閉店し、多額の借金だけが残った。
 なのに弥一は新しい仕事をすればすぐに返済できると言って笑いとばし、飲食店経営に乗りだした。フランチャイズは失敗しにくいし、おれは接客のプロだと言い張って始めたファミレスは、二年で閉店。立地が悪かったのか、スタッフ教育が悪かったのか、最初こそ多かった客足が見る間に減っていったのだ。順調とは言い難い二年間の経営は、爬虫類専門店で作った借金を返済するどころか増やすばかり。気付けばその金額は気が遠くなるほどに膨(ふく)れ上がっていた。だけど弥一はまた笑って、次行こうぜ次、とわたしの肩を叩いた。今回はリサーチ不足だっただけさ。次はアクセサリーのネット販売がいいと思ってるんだ。その明るい笑顔を前にして、わたしは自分が愛した男の正体が分からなくなった。