遅刻欠勤もなく、就労態度は真面目だと自負している。大きなミスもしていないし、何かあるとすればパンを持ち帰っていることくらいか。しかしそれも、わたしだけのことではない。同じ持ち場のジュンシーくんなど、共同生活をしている留学生仲間の分までパンを持って帰っている。川村主任は少しだけ躊躇(ためら)ったあとに、「実はね」と口を開いた。
「お給料の、前借りの件なんだけど」
意味が分からなくて、首を傾(かし)げた。一体何のことだ。不思議そうなわたしの顔を見て、川村主任は「ああ」とこめかみに手を添えてため息をついた。
「そう、やっぱり知らないの」
「知らないって、何がでしょうか」
訊くと、川村主任は今日の昼間に事務室宛てに電話がかかってきたと言った。
「妻の給料を前借りしたい、自分は芳野千鶴の夫だ。そう言ったのよ」
耳の奥で、激しい水音がした。血の気が引く音、というのはこれだろうか。
「私が応対したんだけどね、芳野さんは独身でしょう? 何かの間違いじゃないかって言ったら、元夫だけど生活を共にしているって。急にお金が入用になったけど、妻が会社に申し出にくいと言うから代わりに自分が電話をかけている、と仰(おっしゃ)って」
とても真摯(しんし)なものの言い方をされたんだけど、と川村主任は顔を曇らせる。間違いない、弥一だ。彼なら、うまい言い方をして騙してしまうだろう。
「お金! お金、渡してしまったんですか⁉」
思わず、川村主任に縋る。地面が消え失せたような恐怖を覚えた。心臓の鼓動が速まる。弥一に言った覚えはないけれど、この会社は給料面で融通が利く。日勤組は分からないが、夜勤組には日払いや週払いで賃金を貰っているひとも多い。弥一はそんな話をどこかで知ったのだろうか。前借りなんてされてしまえば、どれだけお金を隠しても意味がない。
「それは、多分ほんとうに元夫で、彼は口が上手くて、その」
震えだした手を、川村主任が握った。パン生地のように白くふんわりとした手にぎゅっと包み込まれる。川村主任は「それは、大丈夫」と微笑(ほほえ)んだ。
「本人以外には渡せないし、そもそも前借りは急に対応できないって丁重にお断りしてます。実は以前、同じようなことがあったの。しかもそのときは事務の子が渡しちゃって」
大変だったのよと言う彼女にほっとする。よかった、と思わず零すと「いいとは、言いきれないんじゃないの?」と言われた。
「勝手に前借りの申し出をしてくるようなひとが、このまま諦めるとも思えないんだけど。結局は持っていかれるんじゃないの?」
言葉に詰まる。川村主任の言う通りで、きっと弥一は直接お金を奪いに来るだろう。その日が今日ではなく給料日に延びただけのことだ。俯(うつむ)くと、川村主任がさっきとはまた違う色のため息をついた。
「プライベートの問題って難しいのよね。あなた、相談できる知り合いはいるの?」
そんなひとがいたら、とっくにしている。首を横に振った。
「あら。それは困ったわねえ」
川村主任が、無意識のように首元のネックレスに触ふれる。小さなオープンハートのそれは、娘からの勤続三十年記念のプレゼントらしい。ストレスを感じたときに触れると、娘が応援してくれている気がして落ち着くの、といつも言う。
「あ、そうだ。ねえ、御両親はどうなの? ご健在なら……」
「ふたりとも死にました」
訊かれたときには、いつもそう答えている。わたしにとって、母は死んだも同然だ。
「ついでに、親戚もいません」
言い足すと、川村主任が眉根をきゅっと寄せ、「かわいそうに」と無意識のようにゆっくり呟いた。それを見て、わたしは席を立った。
「ご迷惑をおかけしてすみませんでした。この件は、もう気にしないでください」
頭を下げて、事務室を出る。川村主任がわたしの名を呼ぶ。振り返ると、川村主任は言葉を探すように口を何度も開閉させた。その表情には見覚えがあった。工場の搬入口にできた鳥の巣を壊したときだ。箒(ほうき)で叩き落された巣の中には小さな卵がいくつかあって、どれも無残に割れた。親鳥に阻(はば)まれながら箒を振り回しているわたしの一部始終を、彼女は遠くから見ていた。いまと同じ言葉を、呟きながら。
「わたし、可哀相って言葉嫌いなんです」
気付けば言葉が口をついて出ていた。え、と川村主任が口を止める。
「千羽鶴みたいじゃないですか。何も救わない」
誰かの自己満足のために役にも立たない善意を押し付けられる。これまで何度もあった。勝手に与えてくるくせに、感謝を強(し)いられるこれは何なのだろう。いい加減辟易していて、だから言わなくていいことだと分かっていても、口が勝手に動いてしまった。
黒豆のように艶のある目が瞬きを繰り返し、それからはっとしたように見開かれた。次いで、頬が赤くなる。
「失礼します」
今度は、呼び止められることはなかった。
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