話をしている間に、作業時間になっていた。急いで持ち場に行くと、白キャップにマスクを着けたジュンシーくんが手を止めて、目で問うてくる。いつもわたしの方が先に作業についているのに、いなかったからだろう。主任に呼ばれてて、と言うと頷(うなず)いて作業に戻った。
 焼きあがった食パンが詰まった番重(ばんじゅう)を、専用台車でブレッドクーラー室へ運ぶのが、わたしの担当だ。食パンとはいえ何十斤(きん)も載った台車の往復はわりと力仕事だ。それに、焼き立てのパンの放つ熱気で汗だくになるし、パンの香りも強烈すぎる。夏ともなれば、噎(む)せ返るほどの熱気でサウナのようになり、室内作業だというのに毎年熱中症で倒れる者もいる。最初は、果たして続けられるのだろうかと不安になったけれど、いまではすっかり慣れてしまった。ぼんやりと考え事をする余裕すらできた。
 番重の積み下ろしをしながら、弥一のことを考える。弥一は絶対に、お金を奪いに来る。会社にまで電話をかけてくるほどだから、よほど困っているのだろう。となれば、有り金全部ということもありえる。わたしがどれだけぎりぎりの生活をしているか、何度となく説明した。けれど弥一は、わたしがいざとなればお金を作りだせると思っている。そんな都合のいいこと、あるわけないのに。
 弥一はいつになったら、わたしを解放してくれるのだろう。思えば、あの離婚条件を飲んだのが間違いだった。二度の事業の失敗による借金をすべて返済すること―それをどうにか叶えられたのは、唯一の財産である芳野の屋敷を売り払ったからだ。あのときは弥一の暴力から逃げたい一心だったし、相談できる人もいなかったから独断で決めてしまったけれど、もっと考えればよかった。
 祖母が生きていたら、何か変わっただろうか。いや、くだらない男に引っかかるなんてあの女の血のせいだと、延々と詰(なじ)られ続けるだけに違いない。晩年の祖母は、わたしに対して不満を抱くといつも母のせいにした。子どもまで捨てて勝手に出ていっておいて、謝罪のひとつも言えないろくでなし。千鶴は、あの女の血が半分入っているからねえ。

「あ……っ!」
 手が滑り、番重を取り落としそうになる。慌てて体勢を整えたものの、二斤が床に転がり落ちた。番重を台車に戻し、慌てて床のパンを掴む。ゴム手袋越しでも焼き立てのパンは高温で、小さな悲鳴を上げてパンを離した。
「なに、やってるですか。落ちたもの、もうむりでしょ」
 近くにいたジュンシーくんが呆(あき)れる。そうだね、ごめんと答えながら熱でじんじんする手を撫で擦った。湯気のせいでなく、視界が潤む。
 必死にやっているつもりだ。具合が悪くても、天候が悪くても、一日と休まずに働いている。食費を削り、化粧品なんてずっと買っていない。己に許した贅沢(ぜいたく)は、一日数粒の飴玉だけ。これ以上、どうすればいいというのだろう。
「芳野さん。からだ、よくない?」
 気付けば、その場にへたりこんでぼろぼろと涙を零していた。ジュンシーくんが呼んだのか、夜勤の責任者である岡崎さんがやって来て、今日は帰りなと言った。働きます、お金、いるんです。みっともないと分かっているのに、口からはそんな言葉が垂(た)れ落ちる。芳野さんは有休残ってるからさ、お金って言うならそれ使えばいいだろ。いつも若い女性作業員――最近では中国人留学生のホンさんのところから離れない岡崎さんが、面倒くさそうに言う。
「今日は人数足りてるから問題ないし、こんなとこで泣かれるの、正直邪魔だし。帰って」
 わたしは岡崎さんに半ば追い出されるようにして、製造エリアを出た。
 人気のないロッカールームに戻り、着替える。休憩室の前を通り、中をちらりと見ると誰もいなかった。まだ就業時間中で、休憩まであと一時間ほどあるから当然だけれど、作業員用のパンは番重いっぱいに盛られていた。めったにないウィンナーパンまである。甘酸っぱいケチャップソースとマスタードがたっぷりかかったあらびきウィンナーは本格的なもので、工場の製品の中で一番人気がある。レンジで軽く温めると格段に味がよくなるんだっけ。そんなことを考えると、お腹が大きな音を立てた。そうだ、作業前に食べるつもりだったのに、川村主任に呼ばれてそんな暇がなかったのだった。
「今日は食いっぱぐれちゃった」
 呟くと、それに抗議するかのように、またお腹が鳴った。空腹でぺたんこになったお腹に、そっと手を添えた。


「あれ、芳野さん? まだ帰ってなかったわけ」
 驚いたような岡崎さんの声にはっとする。岡崎さんが、ぽかんとした顔でわたしを見ていた。気に入った女性作業員の前でしか笑わない、わたしの前ではいつも仏頂面の彼が、珍しく狼狽(うろた)えている。「え、な、何してんの」という声さえも、上ずっている。
 何って、わたしは何をしていたんだったか。一瞬、自分が置かれた状況が分からない。ともかく返事をしようとして、しかし口の中にパンが詰め込まれているのに気が付いた。どうしてわたしは、パンなんか食べているの? 口中のものを急いで咀嚼(そしゃく)しながら辺りを見回し、心臓が跳ねた。電源の入っていないテレビ画面に、餓鬼のような女が映っていた。よれよれのTシャツに、くたびれたジーンズ。右手には食べかけのウィンナーパン。左手には、チョコレートドーナツ。口元だけが意地汚く蠢(うごめ)いている。
「ええと、あれだな。これは、見ないほうがよかった、かな」
 岡崎さんが頭を掻(か)き、視線を逸(そ)らす。何か、悪いね。その、腫物に触わるような言葉を聞きながらも、テレビ画面から目が離せない。ひとつに結わえた髪は伸ばしっぱなしで、バサバサと広がっている。目をぎょろぎょろさせたその姿はただ、浅ましかった。餓鬼が――わたしが顔を歪めた。
 何してんの、あんた。
 両手に握ったパンを放って、逃げるように休憩室から飛び出した。そのまま通用門を抜け、駐輪場へ駆かけていく。リサイクルショップで三千円で買った、塗装の剥げかけた自転車のカゴにバッグを押しこみ、工場を後にした。