弥一は、『素晴らしい才覚を持って成功する自分』という輪郭のない幻(まぼろし)のような自己像があって、それを妄信していた。そしてわたしも、その幻を一緒に見ていたのだ。しかし、ようやく目が覚めた。ほんとうのこのひとは、いつかいつかと言いながら、きっと何者にもなれない。中古車販売店のエースが、身の丈(たけ)に合っていたのだ。
 借金は、どうにかなるさと言える額をとうに超えていた。経理を担っていたわたしがほうぼうに頭を下げて金策にまわり、心労でげっそり痩せこけている姿も、弥一は見ていたはずだ。二度の失敗で、もう金を貸してくれるところなどあるはずがない。
 叶わない夢を追うのはやめようよ。わたしたちは倹(つま)しく暮らさないといけないんだよ。借金を返しながら、地道に生きよう。必死で諭(さと)そうとしたら、弥一の顔つきが一変した。
『お前、おれに口答えしていいと思ってんのか』
 それまで見たことのない歪(ゆが)んだ顔をした弥一は、わたしの胸ぐらを掴んで叫んだ。

 ふと気付くと、出勤時間が迫ろうとしていた。飴を一粒口に、ポケットに二粒入れて立ち上がる。鏡を覗いて、手櫛(てぐし)で髪を梳(す)いてから、アパートを出た。自転車に乗り、職場まで三十分の距離を漕ぎ始める。しぼみかけた入道雲が、夕日に照らされてオレンジ色に染まっていた。鳴り止まないセミの鳴き声が、どこまでもついてくる。野球のユニフォームを着て自転車を漕ぐ男の子が三人、げらげら笑いながらわたしを追い抜いていった。錆(さ)びたチェーンがぎしぎしと鳴る自転車のペダルを踏みながら、小さく笑んだ。
 わたしは愚かだ。もう無理だ、どうにかしなくちゃ、と思っているくせに、結局は何も行動できずに同じことを繰り返してしまう。生活が破綻するその日まで、わたしはどうしようどうしようと言いながら、こうして職場に向かって自転車を漕いでいるのだろう。
 結局、わたしは弥一と似た者同士の、愚か者なのだ。



 電話から一週間後に、思い出を売ったお金が届いた。御丁寧に熨斗袋に入れられ、礼状までついていた。素晴らしい夏の思い出をありがとうございました、と癖のある字で書いてあるのを読んで、鼻で笑う。五万円を抜き取ってから、熨斗袋と礼状をゴミ箱に放った。
 五万円を小さく折りたたみ、ポケットティッシュケースに押し込む。バッグの奥底にそれを入れて、仕事に向かうため家を出た。
 パン工場での夜勤に就こうと思ったのは、給料がよかったことと、パンが食べ放題だったことに尽きる。ここに勤めている限り、食べ物の心配だけはしなくていい。早めに出勤して、休憩室の端に山盛りになっているパンを夕食代わりに食べる。休憩中も、仕事終わりもパンを食べ、昼ごはん用にひとつだけ貰って帰る。最初こそ菓子パンや総菜パンを選んでいたけれど、二ヶ月を過ぎたころからどれも受け付けなくなって、いまではコッペパンばかり食べていた。
 ここ数ヶ月は弥一から奪われる金額が多く、食費にまわせるお金がほとんどない。特に、前回弥一が来て以降は工場のパン以外のものを口にしていなかった。ここに勤めていなかったらどうなっていたことだろう。もはや旨い不味いもなくなったコッペパンで、わたしは生きながらえている。
 工場に着くと、真っ先にロッカーに向かった。会社は、個別に鍵付きロッカーを与えてくれている。そのロッカーの鍵を開け、バッグの中からティッシュケースを取り出した。ロッカーの奥にあるポーチに五万円を押し込む。ポーチの中身は、お金だ。部屋の中に置いておくと弥一に見つかってしまうので、ここに隠すようになったのだ。ポーチの上にタオルをかけて隠し、その上から通勤用のバッグを置いて、ようやく人心地がついた。これで、奪われなくてすむ。
 ため息をつき、作業着に着替えていると、背中を叩かれた。思わずびくりとして振り返る。ひとの良さそうな丸顔で小柄な女性――川村主任が立っていた。
「いつもご苦労様、芳野さん」
「あ、お疲れ様です」
 川村主任は、この工場に勤めて三十二年になるというベテラン社員だ。結婚しても子どもを産んだあともここに勤め続けており、工場長よりも仕事を熟知している。
 川村主任は元々の下がり眉をもっと下げて、「少し、事務室に来てもらえる?」と言った。