母がいなくなって数年後、真面目一辺倒だった父が病に倒れた。祖母は持っている財産の何もかもを使って父に高額な治療を受けさせたけれど、その甲斐虚しく、父はわたしが高校生のときに亡くなった。かろうじて残った屋敷で、祖母とふたり、爪に火を灯(とも)すような質素な生活を送った。プライドが高かった祖母は、周囲の憐憫(れんびん)の目を気にしていつも泣いていた。あの女が、芳野家をダメにしたんだ。あの女のせいで、いまの不幸があるんだ。憎い。ただただ、憎い。祖母はわたしが高校を卒業した年の夏に、母を恨んだまま死んだ。
 ふうん、と野瀬さんは鼻白むように唸った。
「何だか、ドライですねえ。頂いたメールを読む限りは、いまもお母様を求めているように感じましたけど」
「……まさか、そんなわけないでしょう。実際はこんなものですよ。何と言っても、もう二十二年も前のことですし」
 こんなもの、ねえ。野瀬さんはやはり納得しないように呟いたけれど、気持ちを切り替えるように「さて、本題に戻りましょう!」と声を張った。準優勝ということで、賞金五万円と番組のステッカーを贈らせていただきます。住所とお名前の確認ですが、メールに記載されていたものに間違いはありませんか?
 通話を終えて、ため息をつく。久しぶりに、きちんとひとと話をした。最近は、勤務先の工場の守衛さんと挨拶を交わす程度の会話しかしていなかった。
 それより、準優勝、五万円。
 助かった。来月の支払いに、どうしてもお金が足りなかったのだ。支払予定の金額を指折り計算して、胸を撫(な)で下ろす。どうにか、賄(まかな)えそうだ。しかし、優勝ならば十万円だった。元々、その十万円に惹かれて応募したところがあった。
「まあ、貰えたんだから良しとしないと」
 買い取り五万円、いいじゃない。そう呟いて、急に怖くなった。
 果たしてほんとうにいいのだろうか。わたしは、思い出を世の中に流しただけではない。わたしがこれまで抱えてきた、自身にべったり同化してしまっている思い出に、価値をつけさせたのだ。それは誰かの思い出には劣っていて、五万円だと評価された。あの日々は、五万円の価値。紙切れ五枚分。ほんとうに、いいの?
 思わずスマホを掴み、通話記録を呼び出す。さっきかかってきた野瀬さんにかけ直そうとして、すんでのところで止(や)めた。彼にかけて、いまさらどうしようというのだ。準優勝を辞退しますと言う? そんなことしてどうなる。わたしの思い出にはもう、順位と価値がつけられた。

 それに、何よりもお金がない。足りない五万円を、どうやって捻出する?
 ゆっくりと、スマホをテーブルに置いた。テーブルの上には小さなワイヤー製の篭があって、中には個包装されたいちごみるく飴が入っている。子どものころからの好物で、そしていまの生活の唯一の楽しみだ。一日、五粒まで。本日二粒目を取り上げて、パッケージを剥(む)く。さんかくの飴を口に放って、吐き出せなかった言葉たちを甘く包んで飲み下す。甘さに集中して感情の波を抑えようとしていると、ふいに視界が潤(うる)んだ。見慣れた、けれど一向に親しみを持てない質素な部屋がぼやけていく。
「もう、無理だ」
 声が震えた。見ないようにしていた現実を、もういい加減に見据えなければいけない。思い出のお金で、来月わたしはなんとか生きることができるだろう。しかし、それから先をどうする。またあいつがやって来て、金を毟(むし)り取っていくだけだ。

 

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