夏の残り香がする生温(なまぬる)い夜風が、頬を撫でる。汗ばんだ肌にTシャツが張り付いている。自転車を全力で漕ぎながら、声を上げて泣いた。わたしはどこまで、みっともない人間なのだろう。ひとの目を盗むようにしてパンを必死で食い漁(あさ)るなんて、まともなひとのすることじゃない。わたしはどうして、こんな風になった。
 力任せに漕いでいると、急にペダルがすこんと抜けた。と同時に前輪が大きな金属音を立てて停まる。無我夢中で体勢を整えようとしたけれど、わたしは自転車から弾かれるようにして放り出された。ごろごろと地面を転がりながら、自転車のチェーンの具合がよくなかったことを思い出す。一度、自転車屋に見てもらったほうがいいです。そう教えてくれたのは確かジュンシーくんで、わたしは自転車屋に支払うお金が惜(お)しくてだましだまし乗っていたのだった。
 どうやら車道に放り出されたようだったが、車は通っていなかった。全身に痛みを覚えながら、通っていればよかったのにと思う。夜走りの大型トラックでも、スピード違反のバイクでもいい。運転手には申し訳ないけれど、わたしの人生を終わらせてくれたなら。そうしたら、情けない自分と別れられたのに。しかし、大の字に転がっていても尚(なお)、車は来ない。ぼんやりと空を見上げると、ビーズを零したように星が散っていた。儚(はかな)く光る星々がいる。
 いつだったか、誰かとこんな空を眺ながめたことがあったなと思い出す。ああ、そうだ、母だ。あの夏、どこかの公園の、芝生に寝転がって空を見上げた。あまりにうつくしい夜空で、油断したら空へ落ちていくのではないかと、不安を覚えた。天地が分からなくなって、短い芝生をぎゅっと握ることで、どうにか地面に張り付こうとしていた。あのときの自分の純真さが、苦く思い出される。あれから、わたしはずいぶんスレてしまった。いまのわたしの目には、星空がくすんで映る。
「大丈夫かい、あんた!」
 ふいに声がして、誰かの足音がした。顔だけを向けると、ジャージ姿のおじいさんが駆け寄ってくるところだった。ランニングの途中だろうか、首にタオルを掛けている。耳に差したイヤホンを外しながら、おじいさんは大きな声で言った。
「どうしたんだね。救急車、呼ぼうか⁉」
「あ、だ、大丈夫です。すみません、自転車で、こけてしまって」
 あまりに狼狽えているおじいさんを見て慌ててからだを起こすと、至るところが痛んで顔が歪む。自転車? と周囲を見回したおじいさんが、歩道側に倒れていた自転車を起こしてくれた。
「ああ、なるほど。チェーンが外れてるのか」
 どうにか立ち上がり、車道に転がっていたバッグを拾い上げる。その間に、おじいさんは自転車のチェックを始めてくれたらしかった。錆やオイルで手が汚れるのも構わず、作業してくれている。
「す、すみません! あの、元々少し調子が悪くて」
「そうだねえ。チェーン、切れかかってるよ。今日は乗らずに、押して帰るといい」 

 おじいさんが首にかけたイヤホンから、軽快なメロディが流れてくる。音楽が終わったかと思えば、聞きなれた女性の声がした。いつも聴いているラジオ番組だ、と思う。
「よし、できた」
 おじいさんが立ち上がり、自転車のハンドルをわたしに持たせる。そうして、気をつけなよ、と顔を顰(しか)めた。
「こんな時間に、女性がうろつくのは感心しないよ。ここは人通りも少ないし、変な奴が出ないとも限らないんだからね。それと、明日にでも病院に行きなさい。顔、酷い傷だ」
「すみません、ありがとうございます」
 何度も何度も頭を下げる。おじいさんは初めてにこりと笑い、再び駆けだして行った。
 ジャージの背中が闇に溶けこんで見えなくなってから、大きくひしゃげてしまったカゴにバッグを入れて歩きだそうとした。すぐに足を止め、スマホを取り出す。ラジオアプリを立ち上げて、ひとつの番組を選ぶと、さっきおじいさんのイヤホンから聞こえた女性パーソナリティーの声がした。
『ということで、お待たせいたしました。人気企画「あなたの思い出買い取ります」、第四弾の結果発表に参りたいと思います! 今回のテーマは応募総数もさることながら、素晴らしいエピソードが盛りだくさんでした。わたしも毎週たくさんの思い出を読ませて頂きましたけど、うるっとしたり爆笑したりと、とっても楽しかったです。受賞した思い出を、順位発表と共にもう一度お聴きくださーい』
 今日が、結果発表の日だったらしい。この番組の放送時間は工場の休憩時間と重なっていて、だからいつもは忘れることなく聴くことができた。
 バッグの上にスマホを置き、自転車を押して歩き始めた。街灯の少ない県道は、わたししかいない。誰かの思い出が夜風に乗って流れる。温もりを持った記憶たちは、どこに辿りつくのだろう。